「どうしても人と比べてしまう」
「周りの人が成功していると焦ってしまう」
「人から評価されないと、自分には価値がないように感じる」
このような悩みを抱えている人は少なくありません。
仕事の成績、収入、学歴、容姿、結婚、SNSのフォロワー数や「いいね」の数まで、現代社会は人と比較する材料があふれています。
では、なぜ私たちはこれほど人と比べてしまうのでしょうか。
そこには、仏教で「名誉欲」といわれる心が深く関係しています。
なぜ人は周りと比較してしまうのか
心理学者のアルフレッド・アドラーは、人間の行動を理解するうえで「優越性の追求」を重視しました。
「今よりもよくなりたい」
「人より優れた存在になりたい」
「周りから認められたい」
こうした心は、向上するための力にもなります。
一方、仏教では、人から認められたい、褒められたい、評価されたいという心を「名誉欲」と捉えることができます。
私たちは、ただお金が欲しいだけではありません。
「すごい人だと思われたい」
「成功者として認められたい」
「負けたくない」
という気持ちも持っています。
だからこそ、無意識のうちに自分と周りの人を比較してしまうのです。
人の評価に振り回されないこと

会社で苦しむ原因にも「比較」がある
会社では、営業成績や売上、契約件数など、数字によって社員が評価されることがあります。
成績優秀な人は褒められ、昇進や昇給につながる。一方、結果を出せなかった人厳しく評価されることもあります。
比較や競争は、組織を成長させる力になる反面、人を追い詰める原因にもなります。
「同期には負けられない」
「今月も数字を達成しなければならない」
「結果を出さなければ自分の評価が下がってしまう」
そんな焦りが強くなると、顧客の気持ちを無視した強引な営業をしたり、不正な方法で成績を上げたりする人が出てくるかもしれません。
上司が部下に過剰なプレッシャーをかければ、パワハラにつながることもあります。
しかし、その上司自身もまた、
「自分の部署が他部署より悪かったらどうしよう」
「結果を出さなければ自分が評価されない」
という比較の中で苦しんでいるのかもしれません。
比較される部下も苦しい。
比較する上司も苦しい。
その根底には「人から評価されたい」という名誉欲があります。
名誉欲はなぜ私たちを苦しめるのか
仏教では、人間を煩わせ、悩ませる心を「煩悩」といいます。
名誉欲も、私たちを苦しめる煩悩の一つです。
名誉欲の厄介なところは、満たせば終わるものではないことです。
会社で一番になれば、今度はもっと大きな結果を出したくなる。
収入が増えれば、さらに上の収入を求める。
SNSで100人から評価されれば、次は1000人から評価されたくなる。
一つ手に入れると、また次が欲しくなります。
つまり私たちは、有限の命で無限の欲を追いかけているのです。
これでは、どれだけ走っても「もう十分だ」と心から満足することができません。
名誉欲はモチベーションにも焦りにもなる
もちろん、人と比較することがすべて悪いわけではありません。
学校のテストで順位をつけるのも、競争によって「もっと頑張ろう」という気持ちを引き出す面があります。
仕事でも、
「あの人のようになりたい」
という思いが努力する原動力になることがあります。
名誉欲は、私たちを前へ進ませるモチベーションにもなるのです。
しかし同時に、
「負けたらどうしよう」
「評価が下がったらどうしよう」
「追い抜かれたらどうしよう」
という焦りも生み出します。
これは、馬の目の前にニンジンをぶら下げて走らせる姿に似ています。
ニンジンを追いかけている間は走り続けられます。
しかし、手に入ったと思ったら、また次のニンジンが欲しくなる。
名誉欲を満たすことだけを人生の目的にすると、いつまでも走り続けなければならなくなるのです。
親鸞聖人も苦しまれた「名利の大山」
名誉欲に苦しむのは現代人だけではありません。
親鸞聖人も、自らの名誉欲や利益を求める心を厳しく見つめられています。
親鸞聖人は『教行信証』の中で、
悲しきかな愚禿鸞
(中略)
名利の大山に迷惑し
(中略)
恥ずべし傷むべし
と告白されています。
「なんと情けないことだろう。この親鸞は、名誉や利益を求める心が大きな山のようで困っている。恥ずべきことであり、痛ましいことである」
という趣旨です。
親鸞聖人ほどの方でも、
「人からよく思われたい」
「名誉が欲しい」
「利益が欲しい」
という煩悩がなくなったとはいわれませんでした。
むしろ、自分自身の心を深く見つめることによって、人間とは煩悩から離れることのできない「煩悩具足の凡夫」であることを明らかにされています。
親鸞聖人も名誉欲に振り回された

比較する幸福はいつか崩れる
私たちが普段求めている幸福の多くは、比較によって感じる幸福です。
「あの人より収入が多い」
「あの人より成績がいい」
「あの人より幸せな家庭を築いている」
このような幸福には、「誰かより上」という条件があります。
しかし、上には上がいます。
自分より優れた人が現れれば、それまで感じていた幸福が一瞬で苦しみに変わることもあります。
だから人との比較によって得られる幸福は、非常に不安定なのです。
昨日まで幸せだったのに、SNSで誰かの成功を見た途端、自分の人生がつまらなく感じる。
自分の生活は何も変わっていないのに、比較する相手が現れただけで幸福感が失われてしまいます。
それほど私たちの幸福は、「他人」という物差しに左右されます。
仏教が教える「人と比較しない幸せ」
では、人間は一生、比較の苦しみから逃れられないのでしょうか。
親鸞聖人は、煩悩をなくしてから幸せになる道を説かれたのではありません。
名誉欲も欲も怒りもある、煩悩を抱えた人間が、そのままで救われる阿弥陀仏の本願を明らかにされました。
そこで知らされる喜びの世界を「信楽(しんぎょう)」といいます。
ここで大切なのは、誰かに勝ったから幸せなのではないということです。
お金があるから幸せなのでも、社会的に評価されたから幸せなのでもありません。
誰かと比べる必要のない幸せです。
現代的な表現をすれば「絶対の幸福」と表すことができます。
煩悩を持ったまま救われる阿弥陀仏の本願とは

「一人いて喜べる幸福」を求める
人との比較を完全にやめることは簡単ではありません。
「あの人のより上でいたい」
「もっと認められたい」
という名誉欲は、煩悩を持つ私たちから簡単になくなるものではないからです。
だから仏教は、「比較する心をすべてなくせば幸せになれる」と教えているのではありません。
大切なのは、人との比較だけに自分の幸福を預けないことです。
誰かに褒められなくてもいい。
誰かに勝たなくてもいい。
周りから高く評価されなくてもいい。
たとえ一人でいても、「生まれてきて良かった」「生きていてよかった」と喜べる。
人と比較することで得られる相対的な幸福ではなく、比較を超えた幸せを求めていく。
そこに、名誉欲に振り回され続ける私たちに仏教が示している、大切な生き方があるのではないでしょうか。
感想
人と比較して落ち込むことは僕もよくあります。自分よりすごい人を見るととてもみじめな気持になります。でも自分よりも恵まれていない人を見ると安心します。幸せになるためには比較しないことだといいますが、どうしても比較してしまいます。人間は名誉欲を持っているから比較することをなくせない、ということにとても納得しました。
仏教には誰かと比較して感じる幸福ではなく、一人いてひとり喜べる幸福があるといいます。それが絶対の幸福です。その絶対の幸福になれるまで聴聞を続けていきたいです。
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