なぜ嫌いな人はいなくならないのか

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「嫌いな人さえいなくなれば、もっと楽に生きられるのに」

そう思ったことはないでしょうか。

職場には苦手な上司や同僚がいる。家庭でも夫婦や親子がいつも仲良くいられるとは限りません。

人間関係の悩みは、いつの時代にもなくならない苦しみです。

仏教では、この苦しみを「怨憎会苦(おんぞうえく)」と教えられています。

怨憎会苦とは、怨み憎む人、嫌いな人、苦手な人と会わなければならない苦しみです。

では、なぜ私たちは怨憎会苦から離れられないのでしょうか。

仏教では、その原因を「煩悩熾盛の衆生」という人間の姿から明らかにしています。

目次

怨憎会苦はいつの時代にもなくならない

怨憎会苦は、現代だけの問題ではありません。

何千年も前から人間は人間関係に悩んできました。国や文化が違っても、嫌いな人や苦手な人との人間関係に苦しむことはあります。

科学や医学が進歩し、生活が便利になっても、人間関係の悩みがなくなるわけではありません。

「この人さえいなくなれば楽になれる」

そう思って、その人から離れることができたとしても、しばらくすると別の苦手な人が現れることがあります。

なぜでしょうか。

仏教では、苦しみの原因を外側の人だけに求めるのではなく、私たち自身の心に目を向けます。

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「煩悩熾盛の衆生」とは

仏教では、私たち人間を「煩悩熾盛の衆生」と教えられます。

「煩悩」とは、私たちを悩ませる欲や怒り、妬み、怨み、憎しみなどの心です。

「熾盛」とは、火が盛んに燃え上がっているような状態をいいます。

つまり「煩悩熾盛の衆生」とは、欲や怒りなどの煩悩が絶えず燃え盛っている私たち人間の姿を表した言葉です。

政治が変わっても、経済が発展しても、科学や医学がどれだけ進歩しても、人間の煩悩そのものがなくなるわけではありません。

だから怨憎会苦もなくならないのです。

なぜ思い通りにならない人を怨むのか

私たちの心には、

「こうしてほしい」

「自分を認めてほしい」

「自分の思い通りに動いてほしい」

という欲があります。

ところが、生きている以上、すべてが自分の思い通りになることはありません。

自分の欲を誰かに邪魔されたとき、

「なぜ分かってくれないんだ」

「どうしてそんなことをするんだ」

という怒りが起きます。

その怒りがさらに強くなれば、怨みや憎しみに変わることもあります。

つまり、欲と怒り、怨み、憎しみは無関係ではありません。

自分の期待や欲が大きいほど、それが裏切られたときの怒りも大きくなります。

これが、私たちが怨憎会苦から離れられない理由の一つです。

愛する人が憎い人に変わる「愛憎」

これは夫婦関係にも表れます。

結婚するときには、

「この人と一生一緒にいたい」

と思うほど好きだった相手でも、長い夫婦生活の中で嫌いになってしまうことがあります。

仏教では「愛憎」という言葉があります。

愛する気持ちが強ければ、それだけ相手への期待も大きくなります。

「自分はこんなに愛しているのだから、相手も自分を大切にしてくれるはずだ」

ところが、その期待が裏切られることがあります。

浮気をされた。

嘘をつかれた。

大切なお金を勝手に使われた。

自分の気持ちを分かってもらえなかった。

愛していたからこそ、

「信じていたのに」

という怒りや悲しみが生まれます。

そして強かった愛情が、強い憎しみに変わってしまうこともあるのです。

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「恩愛はなはだたちがたく」

親鸞聖人は次のように言われています。

恩愛はなはだたちがたく
生死はなはだつきがたし

愛する人への執着は、簡単に断ち切れるものではありません。

私たちは愛することで喜びますが、その愛によって苦しむこともあります。

会いたいのに会えない。

自分だけを愛してほしいのに、そうならない。

いつまでも一緒にいたいのに、やがて別れなければならない。

愛する気持ちを持っているからこそ、思い通りにならなかったときに苦しむのです。

煩悩を抱えて生きる私たちは、愛することによっても、憎むことによっても悩み続けます。

「生死の苦海ほとりなし」

親鸞聖人は、私たちの人生を「苦海」にたとえられています。

生死の苦海ほとりなし

人生は、苦しみや悩みの波が次々と押し寄せてくる海のようなものです。

人間関係の悩みが解決したと思ったら、今度は仕事の問題が起きる。

仕事が落ち着いたと思ったら、家族のことで悩む。

それを乗り越えたと思ったら、老いや病気、そして死の問題がやってきます。

一つの波を越えても、また次の波がやってくる。

煩悩熾盛の衆生である以上、苦しみの波そのものをなくしてしまうことはできません。

仏教では、煩悩によって汚れた私たちの世界を「穢土(えど)」ともいいます。

では、この苦しみの海をどうすれば渡ることができるのでしょうか。

阿弥陀仏の本願という船

親鸞聖人は次のように教えられています。

生死の苦海ほとりなし
久しく沈めるわれらをば
弥陀弘誓の船のみぞ
乗せてかならずわたしける

私たちは、煩悩を完全になくしてから救われるのではありません。

欲や怒り、妬みや憎しみを抱えた「煩悩熾盛の衆生」のまま、阿弥陀仏の本願によって救われると親鸞聖人は教えられています。

その阿弥陀仏の本願を、親鸞聖人は大きな船にたとえられました。

自分の力だけでは渡ることのできない生死の苦海を、阿弥陀仏の本願という船に乗せていただき、浄土へと渡していただく。

ここに親鸞聖人が明らかにされた救いがあります。

阿弥陀仏の本願についてはこちら

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まとめ|煩悩熾盛の衆生だからこそ救いが必要

嫌いな人が現れるたびに、

「あの人さえ変われば幸せになれる」

「あの人さえいなくなれば楽になれる」

と思ってしまいます。

しかし、一人の嫌いな人がいなくなっても、また別の人を嫌いになることがあります。

その根本には、思い通りにならないと怒り、怨み、憎む「煩悩熾盛の衆生」である私たち自身の姿があります。

だから仏教は、単に嫌いな人を遠ざける方法だけを教えているのではありません。

「自分とは一体どんな人間なのか」

というところまで深く掘り下げていきます。

欲もある。怒りもある。人を怨み、憎む心もある。

その煩悩を抱えた私たちを救うために建てられたのが、阿弥陀仏の本願です。

親鸞聖人は、その本願を「弥陀弘誓の船」とたとえられました。

怨憎会苦の絶えない人生を生きる私たちだからこそ、阿弥陀仏の本願という船に乗ることが大切なのです。

感想

嫌いな人と会わなければならない苦しみは、何千年前からあり、この先何年たってもなくならない苦しみだという。人間は煩悩でできているから怒りや、怨み、憎しみはなくなりません。仏教の教えはこの世の真理を教えられていると感じます。苦しみの海を渡しきる大きな船が阿弥陀仏の本願の船だといいます。その船に乗れるように聴聞を続けていきたいです。

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この記事を書いた人

1983年生まれです。
仏教を学んでよりよい人生をおくりたいです。
みなさん一緒に学びましょう。

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