愛欲に苦しんだ親鸞聖人|煩悩だらけの人間は救われないのか

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「こんな煩悩だらけの自分が救われるはずがない」

そう悩む人は少なくありません。

特に異性への執着や恋愛感情、性的欲望に苦しむ人は、

「仏教を学ぶ資格がないのではないか」

と考えることがあります。

しかし親鸞聖人は、そのような人こそ阿弥陀仏の救いの対象であると教えられました。

なぜなら親鸞聖人自身が、愛欲の苦しみを深く経験されたからです。

目次

親鸞聖人が嘆かれた愛欲の心

親鸞聖人は『教行信証』の後序で次のように述べられています。

悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し

「なんと悲しい事だろうか。この親鸞は愛欲の大海に沈みきっている」

という意味です。

さらに、

恥ずべし、傷むべし

とも述べられています。

自らの煩悩の深さを恥じ、悲しまれている言葉です。

愛欲とは何か

愛欲とは、一般的には異性を求める心や色欲を指します。

・恋愛感情

・異性への執着

・性的欲望

・独占したい心

などです。

多くの人は愛欲を表に出したがりません。

心の奥に隠し、自分だけは違うと思いたいものです。

しかし仏教では、愛欲も人間が持つ煩悩の一つとして見つめます。

比叡山で修行しても消えなかった煩悩

親鸞聖人は9歳で出家し、比叡山へ入りました。

当時の比叡山は女性の立ち入りが禁止された「女人禁制」の世界でした。

愛欲を遠ざけ、厳しい修行によって煩悩を断とうとしていたのです。

親鸞聖人も約20年間にわたり修行を続けられました。

しかし、どれだけ努力しても煩悩はなくなりませんでした。

伝えられるところによれば、26歳頃には恋煩いにも悩まれたといわれています。

修行を重ねても、愛欲の心は消えなかったのです。

そして29歳のとき、親鸞聖人は比叡山を下山されました。

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法然上人との出遇い

下山した親鸞聖人は、やがて法然上人と出遇います。

法然上人から聞かれたのは、

阿弥陀仏の他力本願

でした。

他力本願とは、

「自分の修行や努力によって救われるのではなく、阿弥陀仏の本願によって救われる」

という教えです。

それは煩悩をなくせない人が救われる教え

でした。

ここに親鸞聖人は大きな喜びを見出されたのです。

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親鸞聖人が結婚された理由

親鸞聖人は後に結婚されました。

当時の仏教界では、僧侶が結婚することは極めて異例のことでした。

親鸞聖人は肉食妻帯の生活を送られます。

これは煩悩に負けたからではありません。

むしろ、

結婚しても救われる

煩悩を抱えたままでも阿弥陀仏に救われる

ということを、自らの人生を通して示されたのです。

親鸞聖人は決して聖人君子ではなく、自らを「愚禿」と呼ばれました。

だからこそ、凡夫が救われる道を明らかにできたのです。

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罪業深重でも救われる

親鸞聖人は次の和讃を残されています。

願力無窮にましませば

罪業深重も重からず

阿弥陀仏の本願の力は限りないので、どれほど罪が深くても救済の妨げにはならないという意味です。

さらに、

生死大海の船筏なり 

罪障重しとなげかざれ

とも教えられています。

阿弥陀仏の本願は、生死の苦しみの海を渡る船である。

だから自分の罪や煩悩の深さを嘆き続ける必要はない、ということです。

本当の仏教は煩悩ある人を救う教え

もし煩悩をなくした人しか救われないのであれば、多くの人には仏教は無関係になってしまいます。

しかし親鸞聖人が明らかにされた浄土真宗は違います。

・愛欲がある

・怒りがある

・妬みがある

・憎しみがある

そんな煩悩具足の凡夫こそが救いの対象なのです。

親鸞聖人自身が愛欲の広海に沈む身であることを告白されたのは、自分を立派に見せるためではありません。

「私と同じ煩悩具足の凡夫も必ず救われる」

という阿弥陀仏の本願を明らかにするためでした。

まとめ

親鸞聖人は厳しい修行を重ねても、愛欲の心を断つことはできませんでした。

しかし法然上人との出遇いによって、煩悩を抱えたまま救われる他力本願の教えに出遇われます。

そして結婚という生き方を通して、

「愛欲いっぱいの凡夫でも阿弥陀仏に救われる」

ことを身をもって示されました。

親鸞聖人の教えは、完璧な人のためではありません。

煩悩に悩み、苦しみ、どうにもならない自分を抱えた人のための教えなのです。

感想

どれだけ修行しても異性を求める心はなくすことができないとわかりました。それは親鸞聖人が身をもってあらわされています。親鸞聖人はそのことを隠すことなく、告白されている。修行では煩悩をなくすことができないことがよくわかりました。

親鸞聖人は、法然上人とで遇い弥陀の本願で煩悩いっぱいのものが救われることを知り、これこそが本当の仏教だとさとられたました。

煩悩があるままで救われることができるといわれれば、一般庶民である自分も救われることができるのかもしれないと希望が持てました。それはどの時代の人でもそう考える人はいたと思います。仏教が身近に感じられるし敷居が低く感じられます。

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この記事を書いた人

1983年生まれです。
仏教を学んでよりよい人生をおくりたいです。
みなさん一緒に学びましょう。

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