「怒らない人間になりたい」
「欲を減らせば幸せになれるのではないか」
「嫉妬する心をなくしたい」
私たちは、自分の中にある欲や怒り、ねたみの心に苦しみ、「こんな煩悩さえなくなれば幸せになれるのに」と思うことがあります。
ところが親鸞聖人は、私たち凡夫は煩悩をなくすことができないと教えられています。
では、煩悩を抱えた人間は幸せになれないのでしょうか。
そうではありません。
親鸞聖人が明らかにされたのは、煩悩をなくして幸せになる道ではなく、煩悩を抱えたまま救われる道でした。
煩悩とは何か
仏教で「煩悩」とは、私たちを煩わせ、悩ませる心をいいます。
一般に「108の煩悩」という言葉が知られていますが、その代表的なものが「三毒の煩悩」です。
- 貪欲――なければ欲しい、あればあったでもっと欲しいという欲の心
- 瞋恚――欲を邪魔されて腹を立てる怒りの心
- 愚痴――ねたみ、そねみの心
私たちは毎日の生活の中で、これらの煩悩に振り回されています。
欲しいものを手に入れても、しばらくすると別のものが欲しくなる。
機嫌よく過ごしていても、誰かの一言で腹が立つ。
自分より幸せそうな人を見ると、ねたみやそねみの心が起きてくる。
煩悩は特別な人だけにあるものではありません。私たちの心から絶えず湧き上がってくるものなのです。
親鸞聖人が教えられた「煩悩具足の凡夫」
親鸞聖人は、私たち人間を「煩悩具足の凡夫」と教えられています。
「煩悩具足」とは、人間は煩悩でできている。
雪だるまから雪をすべて取り除けば、雪だるまそのものがなくなってしまいます。
親鸞聖人は次のように教えられています。
凡夫というは、無明・煩悩われらが身にみちみちて、欲もおおく、瞋り腹だち、そねみねたむ心多くひまなくして、臨終の一念に至るまで、止まらず消えず絶えず
私たちには欲があり、怒りがあり、ねたみやそねみがあります。
しかも、それらの煩悩は一時的なものではなく、「臨終の一念に至るまで、止まらず消えず絶えず」と教えられています。
つまり、命の終わりまで煩悩を抱えて生きていくのが凡夫の姿なのです。
仏法を聞けば煩悩がなくなるのか
では、仏法を聞き続ければ、少しずつ煩悩が減っていくのでしょうか。
「以前より怒らなくなった」
「欲が少なくなった」
「人をねたまなくなった」
もちろん、仏教を学ぶことで自分の言動を振り返り、生活態度が変わることはあるでしょう。
しかし、それと「煩悩そのものがなくなる」ということは別です。
親鸞聖人は私たちを「煩悩熾盛の衆生」と明らかにされています。
「熾盛」とは、火が激しく燃え盛るような状態です。
欲、怒り、ねたみ、そねみなどの煩悩が絶えず燃え上がっている。それが私たち凡夫の実相だと教えられているのです。
苦しみの根本原因は何か
「それなら、煩悩がある限り幸せにはなれないのではないか」
そう思うかもしれません。
ところが、ここに親鸞聖人の教えの重要なところがあります。
親鸞聖人は『正信偈』に、
還来生死輪転家
決以疑情為所止
「生死輪転の家に還来することは、決するに疑情を以て所止と為す」
と記されています。
生死流転を繰り返す根本には「疑情」があると示されています。
この疑情は、阿弥陀仏の本願を疑う心を指し、無明の闇とも深く関わるものです。
浄土真宗では、この根本の迷いが晴れることが重要だと教えられます。
疑情についてはこちらも

煩悩をなくしてから幸せになるのではない
ここで大切なのは、
「煩悩をなくすことが救いの条件ではない」
ということです。
もし、
「欲をなくさなければ救われない」
「怒らない人にならなければならない」
「嫉妬心を完全になくさなければ幸せになれない」
ということであれば、煩悩具足の凡夫には救われる道がありません。
しかし親鸞聖人が明らかにされたのは、煩悩を抱えた凡夫そのものが阿弥陀仏の本願によって救われる道でした。
だからこそ、「煩悩があるから救われない」のではありません。
煩悩あるままの私が救われる。
ここに浄土真宗の大きな特徴があります。
無碍の一道とは何か
『歎異抄』には、
念仏者は無碍の一道なり
とあります。
「無碍」とは、さわりにならないということです。
これは、人生から嫌なことがすべて消えるという意味ではありません。
欲も起きます。
腹も立ちます。
人をうらやましく思うこともあります。
それでも、それらが救いを妨げる障害とはならない世界が「無碍の一道」と示されています。
無碍の一道についてはこちらも

欲も怒りも幸せを邪魔してくる
私たちが普段求めている幸せは、煩悩によって簡単に揺さぶられます。
例えば、ずっと欲しかったものを手に入れたとします。
最初はうれしくても、しばらくすると慣れてしまい、
「もっといいものが欲しい」
と思うようになります。
欲には際限がありません。
怒りも同じです。
楽しい一日を過ごしていても、誰かから気に入らないことを言われれば、一瞬で腹が立ちます。それまでの楽しい気分が吹き飛んでしまうことさえあります。
ねたみやそねみも同じです。
自分では幸せだと思っていても、自分より成功している人を見ると、
「どうしてあの人ばかり」
という心が起きてくる。
このように煩悩は、私たちの心を絶えず揺さぶります。
煩悩あるままで救われる
親鸞聖人の教えは、「煩悩を完全になくして立派な人間になりなさい」という教えではありません。
煩悩具足の凡夫である自己の姿を明らかにし、そのような者を救う阿弥陀仏の本願を明らかにされたのです。
欲がある。
腹も立つ。
人をねたむこともある。
そんな自分の姿を知るほど、
「こんな自分ではダメだ」
と思うかもしれません。
しかし、煩悩があることを理由に阿弥陀仏の救いから除外されるのではありません。
煩悩あるままで救われる。
ここに親鸞聖人が明らかにされた救いがあります。
阿弥陀仏の本願についてはこちらも

まとめ――煩悩をなくすのではなく、煩悩あるまま救われる
私たちは「煩悩さえなくなれば幸せになれる」と考えがちです。
しかし親鸞聖人は、私たちを「煩悩具足の凡夫」「煩悩熾盛の衆生」と教えられています。
欲も怒りも、ねたみもそねみも起きてくる。
それが凡夫の実相です。
だから浄土真宗が明らかにする救いは、煩悩をなくした先にあるのではありません。
煩悩を抱えたまま、阿弥陀仏の本願によって救われる。
煩悩が救いの妨げとならない「無碍の一道」がある。
「煩悩があるから幸せになれない」のではなく、「煩悩あるままで救われる道がある」。
このことを明らかにされたところに、親鸞聖人の教えの大きな特徴があるのです。
感想
人間の苦しみの根元は煩悩があるからではないというのが衝撃的でした。煩悩はなくすこともできなければ減らすことできないというのもビックリです。
苦しみの根元は無明の闇にあるという。その無明を闇を破ることができるまで聞き続けたいです。
コメント