浄土真宗では、救われるうえで最も大きな障害となるものを「自力の心」と教えられます。
では、自力の心とは何でしょうか。
親鸞聖人や蓮如上人のお言葉から、その意味をたずねてみましょう。
自力の心とは「疑情」である
浄土真宗でいう自力の心とは、「疑情(ぎじょう)」のことです。
疑情とは、文字どおり「疑いの心」をいいます。
何を疑うのかといえば、阿弥陀仏の本願です。
つまり、
「本当に私のような者が救われるのだろうか」
「煩悩だらけの私でも救われるのだろうか」
という心が疑情です。
実は、この疑いは阿弥陀仏の本願を聞いた人いんしか起きません。
本願そのものを知らなければ、疑うこともできないからです。
したがって、疑情が起きるということは、すでに阿弥陀仏の救いを聞いている証でもあります。
阿弥陀仏の本願とは何か
阿弥陀仏の本願とは、すべての人を必ず救うというお約束です。
説我得仏 十方衆生
至心信楽 欲生我国
乃至十念
若不生者 不取正覚
唯除五逆 誹謗正法
と説かれています。
親鸞聖人はこの本願について、
罪業深重、煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします
と教えられてます。
つまり阿弥陀仏の本願は、立派な人や善人を救うための願いではありません。
罪深く、煩悩に苦しむ私たちを救うために建てられた願なのです。
阿弥陀仏の本願についてはこちらの記事も

煩悩をなくしたら救われるのではない
多くの人は、
「もっと心がきれいになったら救われる」
「欲や怒りをなくせたら救われる」
と考えがちです。
しかし、それは浄土真宗の教えではありません。
阿弥陀仏は、
・欲をなくしたら救う
・怒りを抑えたら救う
・妬みやそねみをなくしたら救う
と誓われたのではありません。
欲もある。
怒りもある。
妬みもある。
そんな煩悩具足の凡夫を、そのまま救うと誓われたのが本願です。
だからこそ親鸞聖人は、
願力無窮にましませば 罪業深重もおもからず
仏智無辺にましませば 散乱放逸もすてられず
と讃えられました。
阿弥陀仏の救いは、人間の善悪や能力の大小によって左右されるものではありません。
煩悩によって苦しむ原因はこちらから

なぜ疑いの心が起きるのか
それでも私たちは、
「そんな都合のいい話があるはずがない」
「自分だけは例外ではないか」
と思ってしまいます。
なぜなら、私たちは長い間、
「努力した人だけが報われる」
「立派な人だけが認めらる」
という世界に生きてきたからです。
そのため、
「何も条件をつけずに救う」
という阿弥陀仏の本願を聞いても、すぐには受け入れられません。
ここに自力の心があります。
自分の善悪や努力を基準にして救いを考えてしまうのです。
親鸞聖人の感動
この疑いの心が破られたとき、親鸞聖人は大きな感動をもって、
誠なるかなや、阿弥陀仏の本願
と述べられました。
これは、
「本当にその通りだった」
「阿弥陀仏のお約束は偽りではなかった」
という深い歓喜の言葉です。
親鸞聖人は、自分が立派な人間になったのだから感動されたのではありません。
煩悩深い自分が、そのまま救われる本願の真実に触れたからこその叫びでした。
信心獲得への道は聴聞にある
では、どうすれば自力の心はなくなるのでしょうか。
蓮如上人は、
いかに不信なりとも聴聞を心に入れて申さば、御慈悲にて候間、信を獲べきなり
と教えられています。
どれほど疑いの心が強くても、
どれほど不信の心があっても、
真剣に仏法を聞き続けるならば、阿弥陀仏の本願力によって信心をいただくときがあるということです。
自力の力で疑いをなくそうとする必要はありません。
聞法を続けることが大切なのです。
蓮如上人が教える聞法の大切さはこちらから

まとめ
自力の心とは、阿弥陀仏の本願を疑う「疑情」のことです。
しかし、その疑いは本願を聞いた人にしか起きません。
阿弥陀仏の本願は、
「善人になったら救う」
というお約束ではなく、
「煩悩に苦しむそのままの私を救う」
という誓いです。
だからこそ親鸞聖人は、
「誠なるかなや、阿弥陀仏の本願」
と歓喜されました。
そして蓮如上人は、
「どれだけ疑いがあっても聞き抜きなさい」
と勧められています。
人生最大の問題である後生の一大事を解決するためには、自分の力に頼るのではなく、阿弥陀仏の本願を聞き続けることが大切なのです。
感想
自力の心とは阿弥陀仏の本願を疑う心のことです。阿弥陀仏の本願をきいて初めてでてくる心のことだといいます。阿弥陀仏の本願を知らなかったら、疑う心もでてこない。すべての人は疑いの心からスタートします。
蓮如上人は、どれだけ疑いの心が強くても真剣に仏法を聞いていれば自力の心が廃るときがくるといわれました。阿弥陀仏の本願が本当だったと知らされるときがくるから、聞きぬきなさいといわれました。
僕自身は聴聞を重ねているが、疑いの心がなくなったとはいえないです。阿弥陀仏の本願がすごいことはわかってきたが、それが本当にあるのか疑問に思っています。阿弥陀仏の本願の説明をきいても半日もたてば忘れてしまいます。まだまだ聴聞が足りないということです。これからも続けて聴聞していきたいと思います。
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