「どうしてあの人は、私の言うことを聞いてくれないのか」
「なぜ自分の思い通りに動いてくれないのか」
人間関係でイライラする原因の一つが、他人を自分の思い通りに動かそうとすることです。
しかし、そもそも他人を自分の思い通りにしようとする発想そのものに無理があります。
相手には相手の立場があり、考え方があり、心があります。
自分の心を尊重してほしいと思うように、相手の心も尊重しなければなりません。
仏教で教えられる因果の道理とは

他人を思い通りにしようとするのは無理がある
たとえば、二人で定食屋へ行ったとします。
自分は生姜焼き定食を注文し、相手は唐揚げ定食を注文しました。
相手の唐揚げがとてもおいしそうに見えたからといって、
「その唐揚げが食べたい」
と思った瞬間に、勝手に取って食べていいわけではありません。
食べたいなら、
「一つもらっていい?」
と相手に聞くでしょう。
なぜなら、その唐揚げは相手のものだからです。
心も同じです。
「私と同じ考え方をしてほしい」
「私の言う通りにしてほしい」
「私の期待通りに行動してほしい」
そう思ったとしても、相手の心を勝手に自分のものにすることはできません。
自分が自分の思いを大切にしているように、相手にも相手の思いがあります。
人にされて嫌なことは、人にしてはいけない。
これは人間関係の基本でしょう。
相手の心まで自分の思い通りに操ろうとするのは、横柄で傲慢な考え方です。
思い通りにしていいのは自分だけ
人間関係で大切なのは、
「相手を変えること」より「自分がどうするか」を考えることです。
相手が自分の期待通りに動いてくれるとは限りません。
親子でも、夫婦でも、友人でも、職場の上司と部下でも同じです。
どれだけ親しい人であっても、自分とは別の人間です。
「なぜ分かってくれないんだ」
と腹を立てる前に、
「自分は相手の心を支配しようとしていないだろうか」
と振り返ってみる。
それだけでも、人間関係の苦しみはずいぶん変わってきます。
支配しようとする人の特徴

権力を持つと人を動かせるように見える
では、人を思い通りに動かす方法はまったくないのでしょうか。
一つあります。
それが権力です。
会社で立場が上になれば、部下は言うことを聞いてくれるでしょう。
政治家など大きな権力を持つ人の周りには、多くの人が集まってきます。
昭和の政治家・大野伴睦には、次のような言葉が伝えられています。
猿は木から落ちても猿だが、代議士は選挙に落ちればただの人だ
国会議員という立場にいるときには、多くの人が頭を下げてくれる。
しかし選挙に落ちて権力を失えば、周囲の態度が変わることもあります。
そこで勘違いしてはいけません。
自分が偉いから頭を下げられているとは限らないのです。
あなた自身ではなく、あなたの持っている役職や権力に頭を下げているのかもしれません。
仏教の教えを学ぶほど、自分を必要以上に偉く見せることへの戒めが大切になってきます。
親鸞聖人が戒めた「立派な人間に見せる心」
親鸞聖人は『教行信証』に、
外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐けばなり
と記されています。
外側だけ立派な人間のように振る舞い、一生懸命努力している人格者のように見せようとしても、心の中を見れば煩悩に満ちている。
そんな自分自身を見つめられた言葉です。
また『歎異抄』には、
親鸞は弟子一人ももたず候ふ。
という有名な言葉があります。
親鸞聖人を慕って多くの人が集まってきました。
しかし、それを「自分の力でこの人たちを従わせている」とは考えられませんでした。
自分が偉いから人がついてくるのではない。
仏法によって結ばれた人たちを、自分の所有物のように「私の弟子」と考えることを戒められたのです。
人が集まってくると、
「自分には人を動かす力がある」
と思いたくなります。
会社で出世したときも同じです。
しかし、その人たちは本当に自分自身に頭を下げているのでしょうか。
それとも役職に頭を下げているのでしょうか。
そこを勘違いすると、傲慢になってしまいます。
他人どころか自分の心さえ思い通りにならない
さらに仏教では、もっと厳しい人間の姿を教えています。
私たちは、
「他人が自分の思い通りにならない」
と腹を立てます。
ところが、よく考えてみれば、自分の心でさえ自分の思い通りになりません。
「今年こそギャンブルをやめる」
と決意したのに、一か月後にはまたパチンコ店へ行ってしまう。
「明日から毎日勉強する」
と決めても、数日後にはやらなくなる。
「もう怒らない」
と反省した翌日に、また家族に腹を立てている。
頭では分かっているのに、心は思ったように動いてくれません。
他人をコントロールする以前に、自分自身をコントロールすることさえ難しいのが私たちです。
散乱放逸とは何か
仏教には**散乱放逸(さんらんほういつ)**という言葉があります。
心が散り乱れ、落ち着かず、欲や怒りなどの煩悩に引きずられてしまう姿です。
心を静めようとしても、次々と雑念が出てくる。
親鸞聖人について記された『歎徳文』には、
定水を凝らすといえども、識浪しきりに動き
という言葉があります。
心を静かな水面のように落ち着かせようとしても、煩悩の波がしきりに起きてくる。
自分の心でさえ、完全には思い通りになりません。
それなのに、
「妻は自分の言うことを聞くべきだ」
「夫なら私の気持ちを分かるべきだ」
「部下は上司の思い通りに動くべきだ」
「子供は親の期待通りに生きるべきだ」
と他人まで思い通りにしようとしたら、苦しくなるのは当然です。
「他人を変える」より「自分を変える」
他人には他人の心があります。
だから人間関係で大切なのは、
「どうすれば相手を思い通りにできるか」ではなく、「自分は相手とどう接するか」
を考えることです。
相手が何を考えるかは相手の領域です。
相手が自分を好きになるか嫌いになるかも、完全にはコントロールできません。
しかし、
「自分がどんな言葉をかけるか」
「自分がどんな態度を取るか」
「相手の立場を尊重するか」
「腹が立ったときにどう行動するか」
については、自分が取り組むことができます。
他人を変えることに力を使うのではなく、まず自分の言動を変えていく。
そこに人間関係を良くする第一歩があります。
まとめ|相手には相手の心がある
「どうしてあの人は思い通りに動いてくれないんだ」
そう思ったときには、一度考えてみましょう。
そもそも他人が自分の思い通りにならないのは当たり前です。
相手には相手の人生があり、価値観があり、心があります。
そして、自分自身の心でさえ思い通りにならないことがあります。
それなのに他人の心まで支配しようとすれば、イライラや不満が増えていくでしょう。
思い通りにしようとするのではなく、相手の心を尊重する。
そして相手を変えることばかり考えず、
「では、自分はどうするのか」
に目を向ける。
仏教を学ぶことは、他人を思い通りに動かす方法を身につけることではありません。
むしろ、自分の傲慢さや愚かさに気づき、自分自身を見つめていくことなのです。
感想
人を思い通りに動かそうという発想が間違いであることがよくわかりました。もし自分が他人に、思い通りに動かされたら嫌な気持ちになるのだから当然のことだなと思います。それを忘れないようにしたいです。
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