要約
■ ある50代男性 友達が大事という信念 仲間は裏切れない
→ 友達が借金をして困っていた 連帯保証人になる しかし友達が裏切り全財産なくしてまう
→ 家と土地まで投げ出してもまだ借金は残る
→ 会社経営をしていたがその会社もたたむことになった
→ 奥さんは夫に裏切られたという思いだった 離婚しようか考えたが離婚はしなかった 夫を信じていたがまさかこの年でこんなことになるなんてと苦しむ
・ 信じているものに裏切られた苦しみ 裏切るものが悪いのだが、裏切るものを信じてしまった自分にも問題があると反省しなければならない
・ 裏切らないものを信じなければ幸せにはなれない
・ 裏切った相手だけを逆恨みして苦しむ人が多いが、そんな人と接点を持ったのは自分であり信じたものも自分であることを反省しなければならない
■ 仏教では人生を難度海(生死の苦海)とたとえられる
・ 難度とは渡るのが難しい、泳ぐに泳げない海のこと 生死の苦海の生死とは苦しみ悩みのこと
・ 人間は生まれたのと同時に難度海に投げ出された 波がつらいから波を乗り越えようと海に浮かんでいる丸太棒や板切れにすがる
・ 丸太棒や板切れにすがれば一時的には楽になるが、また波がやってきてひっくり返って塩水飲んで苦しくなる
→ 丸太棒や板切れとは、友達・夫(妻)・健康・名声・地位 これらのものに裏切られたとき(ひっくり返ったとき)苦しむことになる
・ しがみついては裏切られ、またしがみつくが裏切られの繰り返しが人生 そしていつかは溺れて死んでしまう
・ たとえ30年、40年信じられるものがあったとしても、最後は死ななければならない 自分の命に裏切られる
☆ 難度海を度する大船 (親鸞聖人)
→ 難度海を明るく楽しく渡す大きな船があると宣言された言葉
→ 親鸞聖人は生涯これ一つを教えていかれた
■ 人は苦しむために生れてきたのか?
・ 親鸞聖人は決して苦しむために生きているのではない、大きな船に乗るために生きていると伝えた
生死の苦海ほとりなし 久しく沈める我らをば 弥陀弘誓の船のみぞ 乗せて必ず渡しける (親鸞諸聖人)
→ 弥陀弘誓の船 = 南無阿弥陀仏の船 難度海を渡りきる船
→ 南無阿弥陀仏の船に乗せていただいたことを信心決定という また摂取不捨の利益ともいう
→ 摂取不捨の利益とは裏切られることのない幸せ
☆ 人身受け難し今すで受く
→ 生まれ難い人間に生れてきたのは、この身になるためだったのかとはっきり知らされた言葉
→ その身になるためには、仏法は聴聞に極まる
感想
私たちが求めている幸せとは、必ず裏切るものであることをまず知らなければならない。裏切るものを信じてしまった自分に問題がある。それでは絶対に裏切らない幸せはあるのか? その答えが仏教には教えられているという。
難度海で泳いでいるのが私たちの人生。苦しみの波がひっきりなしにやってくる。海に浮いている丸太棒や板切れにすがることで一時的に休むことができる。これが一般的な幸せをあらわしている。丸太棒や板切れは大きな波がやってきたらひっくり返って、塩水を飲んで苦しむ。幸せは続かない。
自分の人生を振り返ってみても、幸せなときがあっても続かないし幸せのあとには苦しいことがやってくる。山あり谷ありが人生だといわれる。世の中の大半はそれが当たり前だと思っている。
仏教では難度海を渡す大きな船があるといわれる。その船に乗れば丸太棒や板切れのようにひっくり返ることはなくなる。もしそんなことができるなら、人生がどれだけ生きやすくなるだろうか。それが摂取不捨の利益といわれる。
仏教って学べば学ぶほど幸せについて説かれている教えだとわかる。人生における究極的な幸せとは?が教えられていてとても面白い。
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