要約
凡夫 = 人間
「凡夫」というは無明・煩悩われらが身にみちみちて、欲もおおく、瞋り腹たち、ねたみそねむ心多く間なくして、臨終の一念に至るまで止まらず消えず絶えず (親鸞聖人)
夫れ、十悪・五逆の罪人も、五障・三従の女人も、空しく皆十方・三世の諸仏の悲願に洩れて、捨て果てられたる我等如きの凡夫なり (蓮如上人)
仏心とは大慈悲これなり
人間は都合が悪くなると見捨てる 離合集散は利害による
すべての仏が凡夫を見捨てた
→ しかし阿弥陀如来だけが凡夫を見捨てなかった
それが阿弥陀仏の本願
お釈迦さまは一向専念無量寿仏(阿弥陀仏に向いなさい)と説かれた
→ 親鸞聖人も生涯、阿弥陀仏に向いなさいと説かれた
感想
仏も見捨てた悪人とは人間のことだった。人間が煩悩によって造る罪は救いようがないということだった。しかし阿弥陀仏だけがすべての人間を救ってみせるというお約束をされた。それが阿弥陀仏の本願だという。
仏教では三毒の煩悩というものが教えられている。欲、怒り、愚痴(ねたみ、そねみ)のことを三毒の煩悩という。欲とは食欲、財欲、色欲、名誉欲、睡眠欲の五つがある。この五つの欲が邪魔された時、怒りがわく。そして自分より勝れている人を見てねたむ。日々生活をしているとこの三毒の煩悩によって罪を造り続けている。罪とは警察に捕まるような犯罪ではなく、心のなかで思う罪の事だ。仏教では心を一番重要にしている。その心で思う罪はなかなか自覚できないが、仏教を学ぶことで意識することが出来る。意識してみると、たしかに人間は救いようがないなと思えてくる。
阿弥陀仏の本願しか人間を救うことができないことをお釈迦さまはあきらかにされ、一向専念無量寿仏と教えられた。親鸞聖人も一向専念無量寿仏を生涯説かれたという。
仏教とは人間の罪悪を徹底的にあきらかにされた。そして阿弥陀仏の本願だけが救いであることを説かれた。仏教を深く学ばないとわからないことだ。
仏法は聴聞に極まる。
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