親鸞聖人は、人間の本当の姿を「凡夫(ぼんぶ)」という言葉で表されました。
「凡夫」というは無明・煩悩われらが身にみちみちて、欲もおおく、瞋り腹たち、ねたみそねむ心多く間なくして、臨終の一念に至るまで止まらず消えず絶えず
「煩悩」とは私たちを苦しめる欲や怒り、ねたみ、そねみなどの心です。
親鸞聖人は、人間は欲望が尽きず、思い通りにならないと腹を立て、人をねたみ、憎む心を持った存在であり、その煩悩は死ぬ瞬間までなくならないと教えられました。
つまり、凡夫とは特別に悪い人ではありません。私たち一人ひとりの本当の姿なのです。
人は都合が悪くなると見捨てる
人間関係は利害によって変わることがあります。
仕事でも、友人関係でも、利益がある間は親しくしていても、都合が悪くなると離れていくことは珍しくありません。
「離合集散は利害による」といわれるように、人は自分に利益があるかどうかで人との関係を築いてしまいがちです。
そのため、自分に価値がなくなったらと感じると、「自分は見捨てられた」と苦しむ人も少なくありません。
すべての仏が見捨てた凡夫
蓮如上人は次のように述べられています。
夫れ、十悪・五逆の罪人も、五障・三従の女人も、空しく皆十方・三世の諸仏の悲願に洩れて、捨て果てられたる我等如きの凡夫なり
ここで言われているのは、煩悩に満ちた凡夫は、自らの力では仏になることができないということです。
私たちの迷いは深く、自力ではどうすることもできません。
阿弥陀仏だけは凡夫を見捨てなかった
しかし、そのような凡夫を見捨てなかった仏がおられます。
それが阿弥陀如来です。
阿弥陀仏は、「どれほど煩悩が深くても、必ず救う」という本願を立てられました。
これが阿弥陀仏の本願です。
仏の心は、
仏心とは大慈悲これなり
と説かれるように、大慈悲です。
大慈悲とは、相手に価値があるから救うのではなく、苦しんでいる者を決して見捨てない心です。
人間は裏切ることがあっても、阿弥陀仏は決して凡夫を見放されません。
煩悩具足の凡夫を救う阿弥陀仏の本願とは

お釈迦さまが勧められた阿弥陀仏
だからこそ、お釈迦さまは、
一向専念無量寿仏
すなわち、「ただひたすら阿弥陀仏に向かいなさい」と教えられました。
親鸞聖人も、このお釈迦さまの教えをそのまま受け継ぎ、生涯にわたって阿弥陀仏の本願を説き続けられました。
親鸞聖人の教えは「立派な人になれば救われる」という教えではありません。
煩悩から離れられず、欲や怒り、ねたみに苦しみ続ける凡夫だからこそ、阿弥陀仏の本願の救いの対象なのです。
まとめ
私たちは、自分の力だけで煩悩をなくすことはできません。
親鸞聖人は、その現実から目をそらさず、私たちを「凡夫」と教えられました。
そして、その凡夫を決して見捨てなかったのが阿弥陀仏です。
人には見放されることがあっても、阿弥陀仏の大慈悲は決して変わりません。
だからこそ、お釈迦さまも親鸞聖人も、「阿弥陀仏に向かいなさい」と生涯を通して勧められたのです。
感想
仏も見捨てた悪人とは人間のことだとわかりました。人間が煩悩によって造る罪は救いようがないということです。しかし阿弥陀仏だけがすべての人間を救ってみせるというお約束をされました。それが阿弥陀仏の本願だという。
阿弥陀仏の本願しか人間を救うことができないことをお釈迦さまはあきらかにされ、一向専念無量寿仏と教えられました。親鸞聖人も一向専念無量寿仏を生涯説かれたということがわかりました。
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