人は責任ある立場に立つと成長することがあります。
一方で、その立場に慢心し、自惚れてしまうこともあります。
仏教では、この自惚れ心を慢心(まんしん)といいます。
慢心は、自分では気づきにくい煩悩の一つです。
煩悩はなくすことができない

立場が人を育てることもある
「立場が人を作る」という言葉があります。
責任ある立場となることで、人は自分を律しようとするからです。
例えば、学校の先生は、自分の勤務する校区ではパチンコ店へ行くことを控える人が少なくありません。
もし生徒や保護者に見られれば、「先生としてふさわしくない」と思われ、信頼を失う可能性があるからです。
また、自衛隊が災害派遣された際、被災者から「豚汁をどうぞ」「おにぎり食べてください」と勧められても、受け取らないことがあります。
それは、「被災者への支援物資を自衛隊が食べている」と誤解されることを避けるためです。
自分たちの立場を理解し、厳しく行動を律しているのです。
親になってから、「子どもに恥ずかしくない大人になりたい」と考える人も多いでしょう。
子どもに尊敬される親でありたいという思いが、自分自身を成長させることがあります。
このように、立場は人を育てる力を持っています。
立場が人を駄目にすることもある
しかし、立場には別の危険もあります。
権限や地位を手に入れると、それを利用してパワハラスメントやセクハラを行う人もいます。
「自分は偉い」
「自分は特別な存在だ」
そんな慢心が生まれるからです。
その結果、その人は周囲から信頼を失い、最後にはみんな離れていってしまいます。
そのことを表した言葉があります。
あわれなり 人去りて知る 身の不徳
人が去って初めて、自分の徳のなさに気づくという意味です。
慢心している間は、自分の欠点は見えません。
しかし、人が離れてから、自分が慕われていたのではなく、立場に人が集まっていただけだったと知らされるのです。
親鸞聖人は「弟子一人もいない」と言われた
親鸞聖人のもとには、多くの人が教えを聞きに集まりました。
現在でも「二十四輩」と呼ばれる、有名なお弟子が伝えられています。
それにもかかわらず、親鸞聖人は『歎異抄』の中で、
親鸞は弟子一人ももたずそうろう
と語られています。
これは、「自分には弟子がいない」という意味です。
親鸞聖人は、自分を慕って集まる人々を、「私の弟子だ」とは少しも思われませんでした。
教えを説いているのは自分ではなく、阿弥陀仏のお力であると深く受けとめておられたからです。
だからこそ、自分の立場に慢心することがなかったのです。
『歎異抄』についてはこちらから

人は名誉欲と利益欲から離れられない
親鸞聖人は、
名利に人師をこのむなり
とも教えられています。
「名利」とは、
・名誉を得たい心
・利益を得たい心
のことです。
人は、
「先生と呼ばれたい」
「立派な指導者だと思われたい」
「多くの人から尊敬されたい」
という名誉欲から離れることができません。
さらに、お金や地位を得たいという利益欲もあります。
そのため、知らず知らずのうちに「人の上に立ちたい」という気持ちが生まれます。
仏教は、その心そのものが煩悩であると教えています。
まとめ
立場には、人を成長させる力があります。
責任感が生まれ、自分を律するようになるからです。
しかし一方で、立場は慢心を生み、自惚れや権力の乱用につながる危険もあります。
親鸞聖人は、多くの人から慕われながらも、「親鸞は弟子一人ももたずそうろう」と語り、自分を特別な存在とは考えませんでした。
また、「名利に人師をこのむなり」と、人間は名誉欲や利益欲から離れられないことを見ぬいておられます。
だからこそ、仏教は他人の慢心を責めるのではなく、自分自身の心を見つめることの大切さを教えているのです。
感想
人から先生と仰がれたいという気持ちは誰にでもあると思います。立場が人を作り、立場が人をダメにするというのはとても納得しました。
親鸞聖人は弟子一人ももたないといわれました。親鸞聖人ほどの人なら、俺の弟子たちはこいつらだといっても誰も不思議に思わないだろうと思います。実際、慕って集まってきた人たちがいたのだからそう思っていいと思います。ところが、俺の弟子だという気持ちはなかったといいます。そのことにとても驚きました。
コメント