『歎異抄』の最後には、次のような有名な言葉があります。
一室の行者の中に信心異なることなからんために、泣く泣く筆を染めてこれを記す。名づけて歎異抄というべし。外見あるべからず。
これは「同じ念仏の教えを聞く人の間で、信心について誤った考えが広まらないよう、涙ながらにこの書を書き残した」という意味です。
なぜ『歎異抄』の著者は、ここまで信心の違いを心配したのでしょうか。
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一般的な宗教では信心に違いがある
一般的に「信心」と聞くと、人それぞれ強さや深さが違うものだと思われています。
例えば、
・学問がある人
・知識が豊富な人
・人生経験が長い人
・才能に恵まれた人
こうした違いによって、信仰にも差があるように感じられます。
「長年信仰している人のほうが信心が深い」
「よく勉強している人ほど立派な信者だ」
そのように考えるのが一般的ではないでしょうか。
親鸞聖人が説かれた真実信心
しかし、親鸞聖人が説かれた信心は、このようなものではありません。
浄土真宗で説かれるのは、
・真実信心
・他力信心
・一味信心
です。
これらは別々の信心ではなく、阿弥陀仏からいただく同じ信心を表した言葉です。
他力信心とは
他力信心とは、自分の努力や修行によって作り上げる心ではありません。
阿弥陀仏からいただく信心のことです。
一味信心とは、誰もが同じ信心であるということ
「一味」とは、「一つの味」という意味です。
阿弥陀仏からいただく信心には、優劣や違いがありません。
学問のある人も、ない人も、
若い人も、高齢の人も、
男性も、女性も、
善人と思われる人も、煩悩具足の凡夫でも、
阿弥陀仏からいただく信心は同じです。
だからこそ、「一味信心」といわれるのです。
信心は人によって差がつかない
私たちは、何でも人と比べてしまいます。
知識や経験、能力、地位、財産などには確かに違いがあります。
しかし、阿弥陀仏からいただく真実信心には違いがありません。
どんな人でも、他力信心をいただけば、同じ浄土へ往生すると説かれています。
ここには、人間が作るような優劣は存在しないのです。
『歎異抄』が伝えたかったこと
『歎異抄』の著者が「信心異なることなからんために」と書いたのは、信心を人間の能力や努力によって差がつくものと誤解してほしくなかったからでしょう。
真実信心は、自分で育てるものではありません。
阿弥陀仏からいただく信心であり、すべての人が同じ世界にでられると教えられます。
感想
歎異抄では信心が異なることを歎いています。信心とは誤解されやすいことが分かりました。仏教を正しく伝える善知識から聞かなければ間違えてしまいます。自分勝手な解釈で歎異抄を教える人がいるが、それでは本当の意味がわからないと思います。
書店にいけば、歎異抄に関する本はたくさんある。それだけ歎異抄は人によって解釈が違うということです。どれを読めばいいのか迷ってしまうが、僕は「歎異抄をひらく」を薦められました。この本を選んで良かったと思います。
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