同じように仏法を聞いていても、
・すぐに信心決定する人
・なかなか信心決定できない人
があります。
では、その違いはどこにあるのでしょうか。
浄土真宗では、その大きな違いは「聞法心(もんぽうしん)」にあると教えられています。
聞法心とは何か
聞法心とは、
「仏法を聞きたい」
という心です。
どれだけ仏法を聞いても、
・他人事で聞く
・知識として聞く
・暇つぶしで聞く
だけでは、人生を変える聞き方にはなりません。
反対に、
「後生の一大事を解決したい」
「信心決定したい」
という問題意識を持って聞く人は、仏法が深く心に入ってきます。
浄土真宗では、この聞法心が強いか弱いかにいよって、信心決定の早さ違いがでると教えられています。
蓮如上人が教えられた「陽気・陰気」のたとえ
蓮如上人は、聞法心について次のように教えられています。
陽気・陰気とてあり、されば陽気をうくる花は早く開くなり、陰気とて日陰の花は遅く咲くなり。かように宿善も遅速あり。されば已・今・当の往生あり。弥陀の光明に遇いて早く開く人もあり、遅く開くる人もあり。兎に角に信・不信ともに仏法を心に入れて聴聞すべきなり
これは、
日の当たる花は早く咲き、日陰の花は遅く咲くように、人によって信心決定にも早い遅いがある、
という意味です。
宿善とは何か
ここでいわれる「宿善(しゅくぜん)とは、
過去世から積み重ねてきた善根のことです。
・宿善=宿世の善根
・宿世=過去世
・善根=善い行い
浄土真宗では、
宿善が厚い人
・仏法を聞きたい心が強い
・真剣に聞法する
・信心決定が早い
・頓機(とんき)の人
宿善が薄い人
・仏法への関心が弱い
・聞いても後回しになる
・信心決定に時間がかかる
・漸機(ぜんき)の人
と教えられます。
つまり、宿善の厚い薄いは、聞法心の強弱となって現れるのです。
弥陀の光明に遇うとはどういうことか
蓮如上人は、
弥陀の光明に遇いて
と教えられています。
弥陀の光明に遇うとは、仏法を聞くことです。
なぜ真剣に仏法を聞けないのか
実際には、
「仏法を聞かなければならない」
と思っても、なかなか真剣になれない人も多いです。
なぜでしょうか。
それは、
「自分はまだ大丈夫」
と思っているからです。
仏教では、この世を「火宅無常(かたくむじょう)の世界」と教えられています。
火宅無常とは何か
火宅とは、「火のついた家」のことです。
燃えている家の中にいる人は、本来なら急いで逃げなければなりません。
しかし私たちは、
・若いからまだ大丈夫
・健康だから大丈夫
・今は忙しいから後で
と思い、人生の根本問題を後回しにしてしまいます。
ですが現実には、
・事故
・病気
・災害
・突然の別れ
はいつ起きるかわかりません。
人生は、まさに火のついた家のように無常な世界なのです。
私たちは諸行無常の世界に生きている

火宅無常を知らされると聞法心が起きる
自分が火宅無常の世界に生きていると知らされると、
「このままでいいのか」
という問題が起きてきます。
そこから、
・人生の目的とは何か
・死んだらどうなるのか
・本当の幸せとは何か
を真剣に求める聞法心が生れます。
仏教で教えられる人生の目的とは

まとめ
信心決定が早い人と遅い人の違いは、聞法心の違いにあります。
そして聞法心の強弱は、宿善の厚い薄いとなって現れます。
人生は火宅無常の世界です。
だからこそ、
「今聞かずして、いつ聞くのか」
という心で仏法を聞くことが大切なのです。
感想
信心決定が早いか遅いかは、真剣に仏法を聴聞できるかどうかだといいます。真剣に聴聞するためには火宅無常の世界にいることを自覚しなければなりません。
忙しい時、仏法を聞くのはまたあとでいいかと思うときがあります。火宅無常の世界にいることを忘れてしまい聴聞を後まわしにしてしまう。それではダメなのだがつい自分を甘やかしてしまう気持ちが生まれます。真剣に聞くというのも難しく、仏法を聞きながら他のことを考えてしまう。信心決定までの道のりはまだまだ先のように思えました。
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