「何のために生きているのか?」
一度は考えたことがあるのではないでしょうか。
成功しても、努力しても、最後にはすべてを手放し死んでいく。
それなら人生の意味とは何なのか。
この記事では、
・歴史上の人物の生き方と最期
・仏教が教える本当の目的
を通して、その答えを明らかにします。
仏教で説かれる人生の苦しみ全体を知りたい方はこちら

命を懸けて生きた男——西郷隆盛
江戸時代、薩摩藩には「肝練り」という風習がありました。
火縄銃を天井から吊るし、弾が誰に当たるかわからない中で座り続ける。逃げれば「肝が小さい」とされる過酷な試練です。
命より名を重んじるのが武士である、と言われた。
そんな環境で鍛えられたのが西郷隆盛です。
西郷の言葉
命もいらん、名もいらん、官位も金もいらん、そんな人は、始末に困るものだ。ただ、そんな始末に困る人でなければ、艱難を共にして、国家の大事は成し得られないものだ。
👉限られた命で何を成すのか
👉人生を懸ける目的とは何か
という問いがここにあります。
志のために生きた男——吉田松陰
幕末の志士を育てが吉田松陰の辞世の句
身はたとい 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂
命よりも志を重んじた生き方は、多くの志士たちに影響を与え、明治維新の原動力となりました。
志や生きる意味を深く考えたい方はこちら
時代によって変わる「生きる目的」
戦国時代から近代にかけて、価値感は大きく変わります。
徳川家康の家臣として知られる本田忠勝の辞世の句
死にともな 嗚呼死にともな 死にともな 深きご恩の 君を思えば
・戦国時代 → 主君のために死ぬ
・近代 → 天皇のために死ぬ
・戦後 → 家族や愛、自由、平和のため
👉何のために生きるかは時代で変わる
では、本当に変わらない「人生の目的」はあるのでしょうか。
最後は一人で死んでいく現実——宇喜多直家
戦国一の梟雄と呼ばれた、宇喜多直家は、死の床でこう言いました。
「一人で死ぬのは嫌だ。仮に自分が死んだら付き合ってくれる人は、この紙に名前を書いてくれ」
しかし家臣はこう答えます。
「私は戦場では戦えますが、あの世は知りません」
👉どれだけ権力があっても
👉最後は一人で死んでいく
人はなぜ苦しみ続けるのか、その根本原因はこちらから

何も持っていけない現実——蓮如上人
蓮如上人はこう教えています。
まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も、わが身には一つも相添うことあるべからず。されば死出の山路のすえ・三塗の大河をば、唯一人こそ行きなんずれ
👉家族もお金も何も持っていけない
👉完全に一人で死を迎える
運命について詳しく知りたい方へ

成功しても満たされない理由——豊臣秀吉
天下人となった豊臣秀吉の辞世の句
露とおち 露と消えにし 我が身かな 難波のことも 夢のまた夢
すべてを手に入れても、
👉人生は「夢のまた夢」と感じる
これは秀吉だけでなく、すべての人に当てはまります。
仏教が明かす「人生が虚しい本当の理由」
なぜ人は満たされないのか。
それは
👉死後がわからない不安
です。
仏教ではこれを、無明の闇
といいます。
人生の目的とは何か(仏教の答え)
仏教の結論は明確です。
👉無明の闇を破ること
つまり、
👉死後の不安を完全になくすこと
これが人生の目的だと説かれています。
人生の目的を明らかにされた歎異抄についてはこちら

無明の闇が破れたとき
「闇」に泣いた人のみ 「光」に遇った笑いがある
👉本当の安心
👉揺るがない幸福
はここにあります。
まとめ|変わらない人生の目的
・時代によって価値感は変わる
・成功しても満たされない
・最後は一人で死んでいく
だからこそ、
👉変わらない人生の目的は
👉無明の闇を破ること
にあると仏教では教えています。
感想
自分の命を何に使うかをハッキリとさせるためには、人生の目的がいる。自分が死を迎えたときにこの人生でよかったと思えるか。最後に「我が人生に悔いなし」といえるような人はいい人生だったのだと思う。
僕は高校生のとき、三島由紀夫の「葉隠入門」という本を読みそのなかの「武士道といふは、死ぬことと見付けたり」という言葉がとても印象に残っている。高校生のときは武士というのは死を怖れてはいけないということかと思っていた。だから僕自身も死を怖れないようにしようと思っていたができなかった。三島由紀夫自身は最後自決をして人生の幕を閉じていて、本物の武士だったなと憧れを持っていた。
現実で死を前にして思うことは人それぞれだが、仏教では死んだあとどこへ行くのかをはっきりさせることが教えられている。後生の問題を一番大きな問題だと教えるのが仏教だという。死んだ後どこへ行くのかを解決することが人生の目的だと説かれている。

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