要約
■ 西郷隆盛
・ 江戸時代薩摩藩に代々伝わる肝練りというのがある。肝練りとは今日でいう肝試しのこと。薩摩藩士たちが囲炉裏を囲んで数人が車座になる。天井からは火縄銃をぶら下げぐるぐる回す。火縄銃の縄に火をつけて,10秒から20秒で弾が飛ぶ。車座の誰に当たるか運任せというのが肝練り。肝練りを逃げ出してしまったやつは肝が小さいといわれる。肝練りをしても泰然自若な人を人物が大きいといわれ、尊敬された。
→ 命より名を重んじるのが武士である、と言われた。
・ そういう薩摩藩士の中で鍛え上げられた人が西郷隆盛
・ 西郷隆盛の残した言葉に次のようなものがある
命もいらん、名もいらん、官位も金もいらん、そんな人は、始末に困るものだ。ただ、そんな始末に困る人でなければ、艱難を共にして、国家の大事は成し得られないものだ。
→ 限られた命の中で何をするか? 人生懸けて果たすべきことはいったい何か?
→ 人生の目的とは何か
■ 吉田松陰
・ 辞世の句
☆ 身はたとい 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂
・ 吉田松陰は松下村塾を作って明治維新の立役者になる、高杉晋作や伊藤博文を育てた。吉田松陰は最後は江戸幕府から処刑されることになる。辞世の句は多くの幕末の志士たちを感動させ、明治維新の原動力となった。
■ 時代とともに変わる辞世の句
・ 江戸時代、徳川家康の忠義な家臣として知られる本田忠勝とう人の辞世の句は
☆ 死にともな 嗚呼死にともな 死にともな 深きご恩の 君を思えば
・ 本田忠勝はすごい武将だった。主君の徳川家康を残して死ねない、主君を守らなければならないという気持ちだった。主君に深い恩義を感じていた。
・ 戦国時代は主君のために死ぬというのが美談とされていた。
・ 幕末から明治、大正、昭和は天皇のために死ぬとうのが美談とされていた。
・ 戦後になると家族のため、愛する人のため、自由のため、平和のために死ぬのが美談とされた。
→ 何のために生きて何のために死ぬか。人生の目的は何か。
■ 宇喜田直家
・ 戦国時代の人で梟雄として知られる人。梟雄とは裏切り毒殺暗殺をした人。謀略の限りを尽くしてのし上がってきた。戦国一の悪人。宇喜田直家が40代のころお尻から大量の血を流して死の床についた。その死の床でこういった。
「一人で死ぬのは嫌だ。仮に自分が死んだら付き合ってくれる人は、この紙に名前を書いてくれ」
→ 一緒に死んでくれと言われて周囲の家来は困っただろう。最後の最後死ぬときは独りぼっちで死んでいくと思うと寂しかったのかもしれない。花房という家来に対しては次のようにいった。
「おまえは、ずっと自分に仕えてきてくれた。自分が死んだら、おまえは間違いなく死んでくれるよな」
・ 花房という家来はこう答えた。
「私は戦場で槍働きには自信があります。敵と戦って相手に打ち勝つことには自信があります。でも私はあの世のことは何も知りません。だから殿が死んだときに、一緒に死んだとしても、地獄であろうと極楽であろうと、私は道案内をできかねます。だから一緒に死ぬのは困ります。もし、あの世での道案内を殿が希望されるのであれば、坊主を殺して差し上げましょう。殺した坊主と一緒にあの世に行かれたらいかかでしょうか」
→ 宇喜田直家はたいそう落胆した
・ 歴史家の本郷和人さんは自分の奥さんにこういった。
「僕が死ぬときはウソでもいいから、『私はあなたと生きてきて楽しかった』と言ってくれ。そうしたら僕はニッコリ笑って死ねるから」
・ 奥さんはこうった。
「イヤよ! 何でそんなウソをつかなきゃいけないの!」
・ 蓮如上人は次のようにいった
まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も、わが身には一つも相添うことあるべからず。されば死出の山路のすえ・三塗の大河をば、唯一人こそ行きなんずれ
→ いよいよ死んでいかなければならないときは、今まであて力にしていた妻や子供や財産やお金は何一つ持っていけない。たった一人ぼっちでいったいどこへ行くのだろうか。
■ 豊臣秀吉
・ 辞世の句
☆ 露とおち 露と消えにし 我が身かな 難波のことも 夢のまた夢
・ 秀吉の人生は中身の濃い波乱万丈の人生だった。秀吉のテレビドラマは高視聴率をたたき出す。秀吉ほど努力した人はいない、考え続けた人はいない、求め続けた人はいないといわれる。だから天下統一ができた。
・ 当時世界一の金持ちは「沈まぬ国」といわれた、スペインのフェリペ二世か豊臣秀吉だったといわれる。
・ それだけのものを手に入れたなら人生満足して死んでいくのかというとそうではない。朝露のように儚い人生だった。栄耀栄華を極めたが、夢の中で夢を見ているように儚いものだったと辞世の句で述べている。
・ これは秀吉だけでなく、私たちすべての人にあてはまる。いよいよ死んでいくときには、あれはなんだったのかという気持ちになる。
■ 無明の闇
・ すべての人は死んでいかなければならないという暗い心を抱えている。それを仏教では無明の闇という。その闇の心を破る教えが仏教には説かれている。
☆ 「闇」に泣いた人のみ 「光」に遇った笑いがある
感想
自分の命を何に使うかをハッキリとさせるためには、人生の目的がいる。自分が死を迎えたときにこの人生でよかったと思えるか。最後に「我が人生に悔いなし」といえるような人はいい人生だったのだと思う。
僕は高校生のとき、三島由紀夫の「葉隠入門」という本を読みそのなかの「武士道といふは、死ぬことと見付けたり」という言葉がとても印象に残っている。高校生のときは武士というのは死を怖れてはいけないということかと思っていた。だから僕自身も死を怖れないようにしようと思っていたができなかった。三島由紀夫自身は最後自決をして人生の幕を閉じていて、本物の武士だったなと憧れを持っていた。
現実で死を前にして思うことは人それぞれだが、仏教では死んだあとどこへ行くのかをはっきりさせることが教えられている。後生の問題を一番大きな問題だと教えるのが仏教だという。死んだ後どこへ行くのかを解決することが人生の目的だと説かれている。
人生の目的を果たした人は幸せな人生だったといえる。
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