要約
既に無常の風来りぬれば、即ち二つの眼たちまちに閉じ、一の息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて桃李の装を失いぬるときは、六親・眷属集りて歎き悲しめども更にその甲斐あるべからず。さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半の煙と為し果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。 (蓮如上人 白骨の章)
葬儀では見栄、打算、利害のことを考えてしまう
普段はどう生きるしか考えていない
葬儀とは人が一番真面目になるとき
本来の葬儀とはどうあるべきか?
→ 葬儀とは仏法を聞く聞法の場
親鸞聖人
→ 4才で父親 8才で母親を亡くす
→ 両親が死に次は自分が死ぬ番だと思われた。死んだらどこへ行くのかを知りたくて9才のとき出家された
いたずらに すぐる月日は 多けれど 法を求むる ときぞ少なき
「親鸞閉眼せば賀茂河にいれて魚に与うべし」と云々
生きている間に真剣に聞法して本当の幸せになることが大事
感想
葬式で大事なこととは仏法を聞くことだという。普段はどう生きるかしか考えていないが、仏法を聞き、死を見つめることが大事だといわれる。
葬式にでると悲しい気持ちになるのと亡くなった人への感謝する気持ちがわきおこる。そして葬式という儀式は別れの儀式のように思っていた。しかし本来は、仏法を聞く聞法の場だという。仏法を話してくれるお坊さんに会ったことはない。儀式しかやらないお坊さんばかりだ。
親鸞聖人はご自分の葬式など問題にされなかった。死んだら賀茂河にいれて魚に与えればいいといわれた。そんなことよりも、後生の一大事の解決のほうが大事だった。
真面目に死を見つめれば、自分もいつかは死ぬと考える。だから死後どこへ行くのかに考えが及ぶ。死後の行く先をあきらかにしたいと思うことは自然なことだと思う。
仏教には後生の一大事の解決が教えられている。
生きている間に解決したい。
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