要約
自力の心 = 疑情
→ 疑情とは疑いの心
→ 疑情とは阿弥陀仏の本願を疑う心
阿弥陀仏の本願をきいて初めてでてくる心 阿弥陀仏の本願を知らない人には疑いの心は出てこない
阿弥陀仏の本願とは阿弥陀仏のお約束
説我得仏 十方衆生
至心信楽 欲生我国
乃至十念
若不生者 不取正覚
唯除五逆 誹謗正法
罪業深重、煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします (親鸞聖人 歎異抄)
阿弥陀仏の本願とは、すべての人間を必ず本当の幸せに救うという約束
→ 欲や怒りねたみそねみ、を抑えれば救うというお約束ではない
→ 欲や怒りねたみそねみ、そのままで救うのが弥陀の誓い
願力無窮にましませば 罪業深重もおもからず
仏智無辺にましませば 散乱放逸もすてられず (親鸞聖人)
自力の心がなくなったときの親鸞聖人の叫び
→ 誠なるかなや、阿弥陀仏の本願
いかに不信なりとも聴聞を心に入れて申さば、御慈悲にて候間、信を獲べきなり。 (蓮如上人)
→ どれだけ疑いの心が強くても真剣に仏法をきいていれば弥陀の本願力によって自力の心が廃って信心獲得するときがありますよ。そこまで聞きぬきなさい。
感想
自力の心とは阿弥陀仏の本願を疑う心のこと。阿弥陀仏の本願をきいて初めてでてくる心のことだという。阿弥陀仏の本願を知らなかったら、疑う心もでてこない。すべての人は疑いの心からスタートする。
蓮如上人は、どれだけ疑いの心が強くても真剣に仏法を聞いていれば自力の心が廃るときがくるといわれる。阿弥陀仏の本願が本当だったと知らされるときがくるから、聞きぬきなさいといわれた。
僕自身は聴聞を重ねているが、疑いの心がなくなったとはいえない。阿弥陀仏の本願がすごいことはわかってきたが、それが本当にあるのか疑問に思う。阿弥陀仏の本願の説明をきいても半日もたてば忘れてしまう。まだまだ聴聞が足りないということだ。これからも続けて聴聞していきたい。
仏法は聴聞に極まる。
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