要約
愛欲で苦しんでいる親鸞聖人
悲しきかなや愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し(中略)恥ずべし傷むべし
愛欲 色欲
→ 異性を求める心 愛欲は普通隠したい心 下心
本当の仏教は愛欲いっぱいの者でも救われる
親鸞聖人 9才のとき仏門に入る 比叡山で修行する
→ 当時比叡山は女人禁制 愛欲の心を沈めるのも修業の一つ
しかし親鸞聖人は29才のとき比叡山を下山された
→ 26才のとき恋煩いに悩まされる 修行しても頭から離れなかった
下山されて法然上人とで遇われる 法然上人から他力本願を教えられる
他力本願 = 信心決定
親鸞聖人は肉食妻帯をされた
→ 結婚しても救われることを身をもってあきらかにされた
願力無窮にましませば 罪業深重も重からず
生死大海の船筏なり 罪障重しとなげかざれ
感想
どれだけ修行しても異性を求める心はなくすことができない。それは親鸞聖人が身をもってあらわしている。親鸞聖人はそのことを隠すことなく、告白されている。修行では煩悩をなくすことができないことがあきらかになった。
親鸞聖人は、法然上人とで遇い弥陀の本願で煩悩いっぱいのものが救われることを知り、これこそが本当の仏教だとさとられた。
煩悩があるままで救われることができるといわれれば、一般庶民である自分も救われることができるのかもしれないと、希望が持てる。それはどの時代の人でもそう考えると思う。仏教が身近に感じられるし、敷居が低く感じる。
弥陀の救いにあうまで、聴聞を続けていきたい。
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