要約
仏教における家族の存在とは
仏教は出家する教えだから家族を捨てるのが本来の仏教なのか
出家 = 家を出る 家族を捨てて一人修行の道に入る
→ お釈迦さまは家族を捨てて出家されている
お釈迦さまは子供にラゴラと名付けている
ラゴラ = 束縛者という意味
→ 子供を持つということは子供を育てなければならないという責任から束縛される
仏道修行は家族がいるとできない
→ 家族という存在が私たちを煩わせ悩ませる だから煩わせ悩ませる家族を捨てて出家して山に入る
親鸞聖人は家族を持っているままで本当の幸せになれる仏教を教えた
→ 在家の仏教
→ 在家 = 家族を持ったままで仏教を求め本当の幸せになる
親鸞聖人は山上の仏教を山下の仏教にされた また貴族の仏教を庶民の仏教にされた
家族とはどんな存在なのか
→ 袖触れ合うも多生の縁
多生 = 何回も生まれ変わり死に変わりを繰り返してきた間に、ご縁があったからこそ今生で袖が触れ合うことがあった
世界の人口は約80億人だが袖触れ合うということはご縁があるということ
→ 一日に5人の人と自己紹介する人はかなり社交性がる人といえるが、一日に5人の自己紹介を365日休みなくやり続けたとして、80億の全人類と自己紹介し終わるには約3070万年かかる。
日常生活の挨拶や名前を呼び合う人というのはどれだけご縁が深いかといえる
→ 家族、夫、妻、両親ともなればその縁の深さははかりしれない
家族というのはとても大切なものであり、時には憎しみ合うこともある
仏教では
→ 愛別離苦 愛する人(家族)と別れなければならない苦しみ
→ 怨憎会苦 嫌いな人(家族)と一緒に暮らさなければならない苦しみ
お釈迦さまの教えられる苦しみの一つ一つが本当にそうだと家族を通して知らされる
→ こんな人生において変らない本当の幸せを知りたいということで仏縁を結ぶ人は多い
夢の世を あだに儚き 身と知れと 教えて還る 子は知識なり
あるお母さんが自分の子供を亡くす。母親としてはとても悲しい。子供を亡くした悲しさを少しでも癒したいと寺に行く。寺で子供の供養になるためと思いお経を読みむ。そこで仏教のお話を聞く。子供を亡くした母親には仏教の教えが胸に沁みる。母親は続けて仏教を聞くようになる。子供の供養のために聞いていたが仏教とは自分の問題なんだということが知らされる。そして続けて聞いているうちに本当の幸せになる。亡くなったあの子は私に仏縁を結ばせるための仏や菩薩の化身だったと知らされる。
感想
家族の存在とは愛する存在でありときには憎しみの存在にもなる。それでも家族というものはかけがえのないものだ。
僕自身は学生時代、父とは不仲で嫌いだった。一緒に暮らすのがどれだけ嫌だったか。ずっと嫌いだったが、母が癌になり闘病生活になってからは驚くほど変った。今までの父と母の関係は、昭和によくある亭主関白で母はよく耐えていたと思う。そんな父が母の世話や家事をとても積極的にしてくれるようになった。信じられないくらいの変化だった。母が亡くなった後も四十九日までしっかり仏壇に読経してくれた。母のことにこれだけ向きあってくれたのは本当に嬉しかった。
仏教では愛別離苦と怨憎会苦が教えられている。僕は家族を通してそれを学べた。お釈迦のいうとおりだと実感した。まさに「仏説まことなりけり」だった。仏教の教えを身近な生活のなかで感じることは誰でもできることだ。教えを実感することでより深く学びたいという気持ちになる。仏教の教えは誰にとってもあてはまる教えであるといえる。
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