要約
家族を自分の所有物のように扱うと家族はダメになる
恋愛で「あの人を自分のものにしたい」と思うことがあるが、どの時点で自分のものになったといえるか?
→ 付き合い始めたら自分のものになるのか
結婚したら自分のものになったといえるか?
→ 恋人どまりと違って絆は深い
→ 結婚はゴールインといわれる
現代では3組に1組は離婚する時代 残りの3組の2組は家庭内離婚が多い
→ 結婚してもゴールとはいえない
→ そこからまた大変なことが待っている
→ 結婚したとしても自分のものになったといえない
親子の間でも自分の所有物ではない
→ 子供がいうことをきかない 自分の思い通りにいかないことはある
自分の体でさえ思い通りにならなくなる
→ ある日脳梗塞で自分の体が思い通りにならないことがある
親鸞聖人の場合はどうか
専修念仏の輩の、「わが弟子、ひとの弟子」という相論の候らんこと、もってのほかの子細なり。親鸞は弟子一人もたず候 (歎異抄)
親鸞聖人はご自分を慕って集まってきた人たちを、御同行、御同朋と思われた
→ 御同行 = 同じ道をいく人
→ 御同朋 = 兄弟
つくべき縁あれば伴い 離るべき縁あれば 離ることのある
夫婦といっても親子といっても離れるときはある
→ 心も体も無常である 諸行無常
夫婦親子は壊れやすいものだからこそ、一緒に過ごすために大切に育んでいかなければならない
家族なら、親子なら、夫婦ならわかってくれて当然という思い込みは危険
→ 職場の人が分かってくれなくてもそれほど気にならない
→ 夫婦や親子では分かってくれて当然と思いやすい
仏教では一人一人住んでいる業界が違うと教えられる
→ 夫は夫の業界に住んでいる
→ 妻は妻の業界に住んでいる
分かってくれて当然と思いこむとうまくいかなくなる
しっかりとコミュニケーションをとることが大事 分かろうとする姿勢が大事
感想
夫婦や親子関係は、相手を自分の所有物と思いこむことや、分かってくれて当たり前と思いこむことでうまくいかなくなることが分かった。つまり相手のことを雑に扱うことが関係を悪くするということだ。どれだけ長く一緒にいても相手を尊重することが大事。なかなかできることではないが、人との関係のなかで重要なことだ。
僕自身が人との関係がうまくいかなくなるときは、相手から雑に扱われるか、自分が相手を雑に扱ってしまったかの場合が多いと思う。どちらも相手とある程度仲がよくなったときに起こりやすいことだ。だから適度な距離感が必要だと思う。自分が雑に扱われないようにまた相手を雑に扱わないためにも。
仏教では一人一人住んでいる業界が違うと教えられる。たとえ夫婦で一緒に過ごしていても、親子として一緒にいても違う世界に住んでいる。だから、分かり合えない。でも分かり合えないとわかっていたら必要以上にわかって欲しいと思わなくてもいい。少し寂しく思うが、それがちょうどいい距離感になると思う。
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