親の在宅介護をしているBさん。
介護を始めた頃は、
「親孝行ができる」
「父の役に立ててうれしい」
と充実感を感じていました。
しかし、介護生活が3年を超えた頃から状況は変わります。
介護による疲労が積み重なり、仕事でもミスが増えるようになりました。
精神的な余裕もなくなり、父親が鼻歌を歌っているだけでイライラしてしまいます。
ある日、ついに
「いい加減にして」
と怒鳴ってしまいました。
さらに、
「早く死んでくれたら楽になるのに……」
と心の中で思った自分に衝撃を受けたのです。
介護疲れで親を憎んでしまうのは珍しいことではない
現在、日本では高齢化が急速に進んでいます。
特に「2025年問題」と呼ばれる現象が注目されています。
これは、戦後の団塊の世代が75歳以上の後期高齢者となり、介護を必要とする人が急増すると予測されている問題です。
介護をしている人の中には、
・イライラが止まらない
・親に優しくできない
・親の存在が重荷になる
・「早く終わってほしい」と思う
という悩みを抱えている人も少なくありません。
しかし、そのような心を抱いたからといって、その人が特別冷たい人間というわけではありません。
仏教では、誰もが苦しみや迷いを抱えた存在であると教えられます。
仏教で教えるイライラする理由

仏教で説かれる五逆罪とは
仏教では特に重い罪を「五逆罪(ごぎゃくざい)」といいます。
五逆罪の一つに「父を殺すこと」があります。
しかし仏教は行為だけでなく、その心にも目を向けます。
親に対して、
「いなくなってほしい」
「死んでほしい」
と思う心も、人間の迷いの現れとして見つめるのです。
もちろん、仏教は人を責めるためにこの教えを説かれたのではありません。
むしろ、
「どれほど立派な人でも、そのような心を持つ可能性がある」
という人間の現実を明らかにしているのです。
なぜ人はそのような心を起してしまうのか
親を大切にしたい。
感謝しなければならない。
そう思っていても、現実には腹が立ち、憎しみが起きることがあります。
なぜでしょうか。
仏教では、その根本原因を「無明(むみょう)の闇」と教えられています。
無明とは、
・人生の目的に暗い心
・人命の尊厳に暗い心
のことです。
そして、この無明の闇は特別な人だけにあるものではありません。
すべての人が抱えている根本的な迷いなのです。
親鸞聖人が明らかにされた無明の闇
親鸞聖人は、人間の苦しみの根本に無明の闇があることを教えられました。
そして、その闇を破る力こそ阿弥陀仏の本願であると説かれています。
親鸞聖人は次のように述べられています。
無明長夜の灯炬なり
智眼暗しと悲しむな
生死大海の船筏なり
罪障重しとなげかざれ
これは、
「阿弥陀仏の本願は、無明の長い闇夜を照らす灯火である」
という意味です。
どれほど迷いが深くても、
「私はこんな醜い心を持っている」
と絶望する必要はないと教えられているのです。
信心決定とは無明の闇が破られること
阿弥陀仏の本願は、
「どんな人でも必ず救う」
という誓願です。
その本願によって無明の闇が破られたとき、
浄土真宗では「信心決定」といいます。
また、
破闇満願(はあんまんがん)
とも表現されます。
無明の闇が破られることで、自分の本当の姿が知らされるのです。
阿弥陀仏の本願についてはこちらも

人生で最も大切なこと
お釈迦さまは、
人身受け難し 今已に受く
と説かれました。
人間として生まれることは極めて難しことであり、その尊い命を今私たちは受けているという意味です。
介護の苦しみの中では、親に対して思いもよらない感情が起きることがあります。
しかし、その心を通して人間の本当の姿を知らされることもあります。
親鸞聖人が明らかにされた教えは
「そんな私でも必ず救う」
という阿弥陀仏の本願でした。
介護疲れに悩む人にとっても、この教えは大きな心の支えとなるのではないでしょうか。
感想
人生に虚しさを感じるのは人生に意味を感じられないからだといいます。生きる目的を見失っているとき、何のために生きているのだろうと思うことがあります。
僕自身は、自分の人生が前に進んでいないようなきがする、なんだか楽しいことがない、毎日がつまらない日々が続く、こんなとき人生が虚しいと感じます。生活に張りがないと心が沈んでしまう。だから人生に目標を持つことが大事だと思い目標を立てるようにしています。目標を立てることでそれを目指して日々生活することができる。しかし目標はあくまでも生き方の問題であって、生きる目的とは違います。では生きる目的とは何か? それをはっきりと教えてくれた人はいません。
仏教では人生の目的を教えられています。それは無明の闇を破ることだという。無明の闇を破るには阿弥陀仏のお力が必要だとわかりました。
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