無碍の一道とは?歎異抄第七章に学ぶ煩悩に妨げられない人生

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念仏者は無碍の一道なり

親鸞聖人の教えを伝える『歎異抄』第七章に、

次の有名な言葉があります。

念仏者は無碍の一道なり

この言葉は、浄土真宗の教えを理解するうえで非常に重要なものです。

では「無碍の一道」とはどのような意味なのでしょうか。

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念仏者とはどんな人か

まず「念仏者」とは誰のことでしょうか。

念仏者とは、単に念仏を口にする人ではありません。

浄土真宗では、

「阿弥陀仏の本願に救われた人」

を念仏者といいます。

親鸞聖人は、阿弥陀仏の救いを、

「本願の船」

にたとえられています。

苦しみの絶えない海を渡るとき、自分の力だけでは目的地へたどりつけません。

しかし丈夫な船に乗れば、安全に海を渡ることができます。

同じように、阿弥陀仏の本願の船に乗せられた人が念仏者なのです。

これを浄土真宗では

信心決定

といいます。

仏教を聞く目的は信心決定

親鸞聖人は、仏法を聞く目的は信心決定にあると教えられています。

知識を増やすためでもなく、学問として学ぶためでもありません。

阿弥陀仏の本願を聞き、その救いに対してツユチリほどの疑いがなくなることが目的なのです。

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無碍の一道とは何か

無碍の一道とは、

煩悩が障りとならなくなったただ一つの道

という意味です。

「碍(げ)」とは妨げや障害のことです。

つまり、

どんな煩悩があっても妨げにならない世界

を表しています。

人間を苦しめる三毒の煩悩

仏教では、人間を苦しめる代表的な煩悩として三毒の煩悩が説かれています。

貪欲(とんよく)

なければ欲しい、あればあったでもっと欲しいという心です。

瞋恚(しんに)

欲が邪魔されたときに起こる怒りの心です。

愚痴(ぐち)

自分より優れている人を見て起こる、ねたみやそねみの心です。

これら三毒の煩悩は、誰の心にも絶えず起こっています。

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人生は生死の苦海

仏教では人生を

生死の苦海

とたとえます。

苦しみの海を漂う人間は、煩悩の波に翻弄されています。

例えば、

・お金があれば幸せになれると思う

・仕事がうまくいけば安心できると思う

・家庭が円満なら大丈夫だと思う

しかし人生には予想もしない大波がやってきます。

病気や老い、別れや死によって、それまで頼りにしていたものが崩れてしまうことがあります。

そのたびに私たちは苦しみます。

なぜ無碍の一道といわれるのか

阿弥陀仏の本願を船にたとえるなら、煩悩は海の波です。

私たちは、煩悩の波に耐えるため海に浮かんでいる丸太棒にしがみついていますが、大きな波がくるとひっくり返って塩水を飲んで苦しみます。

しかし巨大な船があれば、どれほど波が高くてもひっくり返ることはありません。

信心決定した人も同じです。

煩悩はなくなりません。

怒りも起こせば、欲も怒ります。

嫉妬や不満も湧いてきます。

しかしそれらが救いの妨げにはならないのです。

だから、

念仏者は無碍の一道なり

といわれるのです。

願力無窮にましませば

親鸞聖人は『正信偈』で次のように教えられています。

願力無窮にましませば 罪業深重もおもからず

阿弥陀仏の本願力は限りなく大きいので、どれほど重い罪業も問題にならないという意味です。

仏教では、人間の罪悪は巨大な岩のように重いと説かれます。

阿弥陀仏の本願の船に乗せられた人は、どれほど深い煩悩や罪悪を抱えていても救われるのです。

信心決定しても煩悩はなくならない

ここで誤解してはいけないことがあります。

信心決定したからといって、

・欲がなくなる

・怒らなくなる

・嫉妬しなくなる

わけではありません。

親鸞聖人は自らを

煩悩具足の凡夫

と表現されています。

私たちは死ぬまで煩悩から離れられません。

煩悩の波は最後まで起こり続けます。

しかし、本願の船に乗せられた人は、その波によって沈むことがなく、浄土往き間違いない身になることができるのです。

まとめ

『歎異抄』第七章の

念仏者は無碍の一道なり

とは、

阿弥陀仏の本願に救われた人は、煩悩に妨げられない唯一つの道を歩む人である

という意味です。

人間には欲、怒り、愚痴という三毒の煩悩があります。

その煩悩は信心決定した後もなくなりません。

しかし阿弥陀仏の本願力は、どれほど深い罪業や煩悩があっても救いの妨げにはなりません。

だからこそ親鸞聖人は、

念仏者は無碍の一道なり

と力強く教えられたのです。

感想

煩悩があるままで救われるといいます。それが弥陀の本願の船に乗せていただくことだという。どれほど煩悩によって罪を造っても沈むことのない船。煩悩が障りにならない世界。そんな世界が本当にあるのだろうか。

日々の生活の中で、欲、怒り、ねたみそねみによって苦しんでいます。煩悩に振り回されるのが人生、それが当たり前だと思っていました。

しかし、仏教では生死の苦海で溺れている人間を救う大きな船があると教えらます。弥陀の本願の船に乗ることができれば、煩悩が妨げにならないという。

親鸞聖人はその弥陀の船があることを生涯説かれたといいます。これからも続けて聴聞していきたいです。

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この記事を書いた人

1983年生まれです。
仏教を学んでよりよい人生をおくりたいです。
みなさん一緒に学びましょう。

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