龍樹菩薩が説かれた「難行道」と「易行道」—親鸞聖人が見出された大安心の道

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龍樹菩薩の『十住毘婆沙論』に説かれる二つの道

浄土真宗で七高僧の第一祖と仰がれる龍樹菩薩は『十住毘婆沙論』の中で仏道を、

・難行道(なんぎょうどう)

・易行道(いぎょうどう)

の二つに分けて説かれています。

顕示難行陸路苦 

信楽易行水道楽  

「難行の陸路の苦しさを明らかにし、易行の水路の楽しさを信じ喜ばせる」

という意味です。

難行道とは何か

難行道とは、自らの力によって悟りを目指す道です。

一般に聖道門の仏教がこれにあたります。

龍樹菩薩は難行道を、

険しい陸路を歩いて目的地へむかうようなもの

とたとえられました。

山道を一歩一歩登るように、

・戒律を守る

・禅定を修める

・煩悩を断つ

・智慧を完成させる

という厳しい修行を積み重ねなければなりません。

この道は、

丈夫志幹

すなわち、

「仏の悟りを目指す強い志を持った人」

に説かれた道といわれています。

易行道とは何か

これに対して易行道とは、

阿弥陀仏の本願力によって救われる道

です。

龍樹菩薩はこれを、

船に乗って川を渡るような道

とたとえられました。

陸路では自分の足で歩かなければなりませんが、船に乗れば船の力で目的地へ運ばれます。

易行道は、

獰弱怯劣

つまり、

・志が弱い人

・煩悩が深い人

・自力修行ができない人

のために説かれた道です。

そして龍樹菩薩ご自身も、

「私は獰弱怯劣の者である」

と述べられています。

これは決して自分を卑下されたのではなく、人間のありのままの姿を深く見抜かれた言葉です。

仏教の目的はすべて同じ

仏教には多くの宗派があります。

しかし、

分け登る麓の道は多けれど

同じ高嶺の月を見るかな

といわれるように、目指すところは同じです。

それは、

仏覚(ぶっかく)

すなわち仏の悟りです。

どの宗派にも共通して、

教(きょう)

よりどころとなる教え・経典

行(ぎょう)

教えに従って実践すること

証(しょう)

実践の結果として得られる悟り

があります。

仏教を求めることは、究極的には仏覚を求めることなのです。

親鸞聖人が歩まれた道

親鸞聖人は9歳で比叡山に入り、29歳までの20年間、厳しい聖道門の修業を続けられました。

当時考えられる限りの努力を尽くされました。

しかし、

煩悩を断ち切ることはできない自分

を知らされます。

「どれほど修行しても悟りに至れない」

という深い苦悩の末、比叡山を下りられました。

法然上人との出遇い

京都で法然上人と出遇われた親鸞聖人は、

阿弥陀仏の本願によって救われる易行道を知らされます。

そして、

大悲の願船に乗じて、

光明の広海に浮かびぬれば

と喜ばれました。

大悲の願船とは

阿弥陀仏の本願の船です。

南無阿弥陀仏の救いに乗せていただいたことを

信心決定

といいます。

信楽とは何か

親鸞聖人がよく使われる言葉に

信楽(しんぎょう)

があります。

信とは

後生の一大事が解決した大安心

です。

楽とは

人生の目的が達成された大満足

です。

阿弥陀仏の本願に対してツユチリほども疑いがなくなった心を信楽といいます。

阿弥陀仏の本願についてはこちらから

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まとめ

龍樹菩薩は仏道を、

・自力で歩む「難行道」

・阿弥陀仏の本願に任せる「易行道」

の二つに分けて説かれました。

親鸞聖人は20年間の厳しい修行を通して自力の限界を知らされ、法然上人の出遇いによって易行道へ入られました。

そして阿弥陀仏の本願の船に乗せられた喜びを、

大悲の願船に乗じて、

光明の広海に浮かびぬれば

と表現されています。

浄土真宗でいう信心とは、努力によって作り出すものではなく、阿弥陀仏の本願に救われた心の世界なのです。

感想

信心決定とは浄土に往って仏に生まれることが定まったことだといいます。それが大悲の願船に乗せていただくということであり、信楽になったということです。悟りとは仏の覚りのことですべての宗派が目指すもののことです。

龍樹菩薩という小釈迦とも八宗の祖ともいわれた方が、自分は獰弱怯劣だといわれたことに驚きました。龍樹菩薩が獰弱怯劣ならすべての人が獰弱怯劣以下になるのではないかと思いました。丈夫志幹の者など誰も当てはまらない。聖道仏教とはいかに難しく過酷であるかがわかります。親鸞聖人も比叡山で聖道仏教の修業をされたが、救われる道はないと下山された。

浄土仏教は煩悩があるままで救われる教えが説かれています。それはすべての人を信楽の身にしてみせる、という阿弥陀仏のお約束のことです。阿弥陀仏の本願がなかったらすべての人は救われない。そこが浄土仏教の素晴らしさだと思いました。

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この記事を書いた人

1983年生まれです。
仏教を学んでよりよい人生をおくりたいです。
みなさん一緒に学びましょう。

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