親鸞聖人は35歳で流罪になった
親鸞聖人は35歳のとき、現在の新潟県にある越後へ流罪となりました。
また、師である法然上人も75歳で四国の土佐へ流罪となっています。
この出来事は、仏教史上「承元の法難」として知られています。
なぜ、僧侶である法然上人や親鸞聖人が罪人として処罰されなければならなかったのでしょうか。
当時の仏教界を支えていた比叡山と興福寺
当時、日本仏教の中心には比叡山延暦寺や興福寺がありました。
これらの大寺院は、宗教施設であるだけではありませんでした。
・莫大な財力を持つ
・公家や貴族、天皇家の後ろ盾を持つ
・僧兵を抱えるほどの武力を持つ
政治や社会にも大きな影響力を持つ存在だったのです。
当時の仏教は誰のためのものだったのか
当時の仏教では、
「戒律を守って厳しい修行を積んだ僧侶」
や、
「寺に多くの寄進をする公家や貴族」
こそが浄土へ往生できると考えられる傾向がありました。
一方で、多くの庶民や武士は、救いの対象から遠い存在と見られていました。
また、仏教は公家のための加持祈祷や、出世、病気平癒などを願うものとして用いられることも少なくありませんでした。
法然上人が説かれた「すべての人が救われる仏教」
法然上人は京都の吉水草庵で、
阿弥陀仏の本願によって、身分や立場に関係なく、すべての人が救われる。
という教えを説かれました。
親鸞聖人もその教えに深く感動し、生涯をかけて伝えていきます。
この教えは、それまでの仏教観とは大きく異なっていました。
親鸞聖人は恩知らずだったのか
法然上人も親鸞聖人も、もともとは比叡山で長年修行と学問を積んだ僧侶でした。
そのため、
「比叡山で育ててもらいながら、その教えを否定するとは恩知らずだ」
と非難する人もいました。
しかし本当に伝えたかったのは、
「お釈迦さまが説かれた本当の仏教を知ってほしい」
という一点だったのです。
親鸞聖人が恐れなかったもの
親鸞聖人は次のように記されています。
誠に仏恩の深重なるを念じて人倫の哢言を恥じず
これは、
「仏の大きなご恩を思えば、人からどのような悪口や避難を受けても恥じることはない」
という意味です。
親鸞聖人は、人々の評価よりも、仏の教えを正しく伝えることを大切にされました。
承元の法難が現代に伝えていること
承元の法難は、単なる宗教弾圧ではありません。
それは、「誰が救われるのか」という仏教の根本をめぐる出来事でした。
親鸞聖人が命がけで伝えようとされたのは、一部の人だけが救われる教えではなく、すべての人に開かれた阿弥陀仏の救いです。
だからこそ、流罪という厳しい処分を受けてもなお、その教えを語り続けられたのです。
親鸞聖人が教えられた「他力」とは

感想
親鸞聖人の時代に比叡山や興福寺に間違いだと声をあげることが、どれほど恐ろしいことだったかがわかりました。そうとうな覚悟が必要だったし、流刑になってしまったことはどれほど辛かったことだろうかと思います。
親鸞聖人が非難に屈していたら現代で正しい仏教を知ることはできませんでした。そう思うと感謝の気持ちが湧いてきます。
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