「不倫は誰にも迷惑をかけなければいい」
「バレなければ問題ない」
このように考える人もいるかもしれません。
しかし、本当に不倫はバレなければ問題ないのでしょうか。
不倫が発覚すれば、離婚や慰謝料、家族関係の崩壊など、大きな代償を払うことがあります。
そして仏教では、不倫など道を外れた性的関係を**「邪淫(じゃいん)」**として戒めています。
この記事では、不倫がバレる原因やその代償、なぜ人は不倫をしてしまうのかを、仏教の「邪淫」と「愛欲」の教えから考えてみます。
「不倫はバレなければいい」は本当か
不倫を肯定する人の中にも、
「家庭を壊さないようにすればいい」
「絶対にバレないならいい」
と考える人がいます。
しかし「バレないこと」を前提にすると、不倫を続けるためには多くのことを隠さなければなりません。
スマートフォンの履歴、クレジットカードの利用、位置情報、SNS、車内の痕跡、服装や匂い、日常生活の変化、人との会話など、発覚につながるきっかけはいくらでもあります。
すべてに気を配ったとしても、思いがけないところから知られることがあります。
そして何より隠すのが難しいのが、本人の心の変化です。
仲良し夫婦になるための仏教の教え

不倫がバレるきっかけは「日常の違和感」
人間は、心で思っていることを完全に隠すことができません。
心を川にたとえるなら、心は上流であり、言葉や行動は下流です。
上流の水が変われば、やがて下流にもその影響が現れます。
不倫相手のことを考えて心が浮き立っていれば、無意識のうちに表情や言葉、行動が変わるでしょう。
反対に、
「絶対にバレてはいけない」
「怪しまれないようにしよう」
と思い続けていても、その緊張が不自然な言動となって現れることがあります。
今までスマートフォンを放置していた人が急に肌身離さず持ち歩く。休日の予定が変わる。服装を気にするようになる。家族への態度が変わる。
一つひとつは小さな変化でも、毎日一緒に生活している人には「何かがおかしい」という違和感として伝わります。
心の変化は、やがて言葉や行動に現れる。
だからこそ、秘密を永遠に隠し続けることは簡単ではありません。
不倫がバレたときに待っている大きな代償
不倫が発覚したとき、失うものは一つとは限りません。
離婚に発展したり、夫婦の信頼関係が壊れたり、慰謝料などの金銭問題が生じたりすることがあります。
子供がいれば、親子関係やその後の生活にも影響するかもしれません。
また、不倫相手との関係も安泰とは限りません。
発覚した途端に、
「あなたのせいで家庭が壊れた」
「どうしてもっと注意しなかったのか」
と、お互いを責め始めることもあります。
最初は「この人だけが自分を分かってくれる」と思っていた二人が、最後には傷つけ合うこともあるのです。
不倫の代償とは、お金だけではありません。
夫婦の信頼、家族との関係、人間関係、社会的信用、そして自分自身の心の平穏まで失う可能性があります。
仏教では不倫を「邪淫」という
では、仏教では不倫をどのように考えるのでしょうか。
仏教には**「十悪(じゅうあく)」**と呼ばれる十種類の悪い行いが説かれています。
その一つが邪淫です。
邪淫とは、道を外れた邪な男女関係を意味します。
なぜ仏教が邪淫を戒めるのか。
それは単に「ルールを破ってはいけない」というだけではありません。
欲望に振り回された行為は、自分だけでなく周囲の人を傷つけ、やがて自分自身にも苦しみをもたらすからです。
仏教には、
善因善果・悪因悪果・自因自果
という因果の道理があります。
善い行いは善い結果を生み、悪い行いは悪い結果を生み出す。そして、自分の行いの結果を受けるのは自分自身である、という教えです。
「誰にもバレなければ大丈夫」という問題ではありません。
誰も見ていなくても、自分が行ったという事実は消えないからです。
まいた種は必ず生える|因果の道理とは

邪淫によって心にも苦しみが生まれる
邪淫による苦しみは、発覚した後だけに始まるものではありません。
秘密を抱えれば、
「バレるのではないか」
「誰かに見られていなかったか」
「スマートフォンを見られたらどうしよう」
という不安が生まれます。
秘密を守るために、さらに嘘をつかなければならなくなることもあります。
一つの嘘を隠すために、また別の嘘が必要になる。
すると心は休まらなくなります。
不倫によって一時的な喜びを得たとしても、その裏側で不安や疑いが大きくなっていくのです。
これも邪淫がもたらす苦しみといえるでしょう。
なぜ人は不倫をするのか――根底にある「愛欲」
では、なぜ大きな代償があると分かっていても、人は不倫をしてしまうのでしょうか。
仏教では、私たちの心には愛欲があると教えられます。
「愛したい」
「愛されたい」
「自分のことを分かってほしい」
という欲です。
愛欲そのものは、一部の特別な人だけが持っているものではありません。
誰の心にもあります。
そのため、不倫を単純に「一部のだらしない人だけがすること」と考えてしまうと、人間の心の本質を見失います。
大切なのは、自分にも縁によって欲望に流される可能性があると知ることです。
親鸞聖人も苦しまれた愛欲

「分かってほしい」という孤独が愛欲を強くする
夫婦になれば、お互いに何でも分かり合えると思うかもしれません。
しかし、どれほど長く一緒に暮らしていても、相手の心を完全に理解することはできません。
「どうして自分の気持ちを分かってくれないのか」
「こんなに頑張っているのに認めてもらえない」
「自分は愛されていないのではないか」
そんな孤独や寂しさを抱えているときに、自分を理解してくれるように感じる異性が現れる。
すると、
「この人なら自分を分かってくれる」
と思うようになります。
それが愛欲を強くする縁となり、不倫へ進んでしまうことがあります。
しかし、不倫相手と一緒になれば孤独が完全になくなるのでしょうか。
最初は理解してくれていると思った相手にも、やがて不満が出てきます。
「この人も自分を分かってくれない」
と感じる日が来るかもしれません。
相手を変え続けても、自分の心にある欲が変わらなければ、同じ苦しみを繰り返してしまうのです。
愛欲が強くなると「我利我利」の心になる
仏教では、自分の利益ばかりを求める姿を**「我利我利(がりがり)」**と表現することがあります。
「自分が愛されたい」
「自分が寂しいから満たしてほしい」
「自分を分かってほしい」
愛欲が強くなると、相手の配偶者や自分の家族がどれほど傷つくかよりも、自分の欲望を満たすことを優先してしまいます。
もちろん本人は、
「本当に愛しているから」
と思っているかもしれません。
しかし、その愛によって誰かを深く傷つけているなら、自分の欲を満たすための愛になっていないか、一度振り返る必要があります。
愛欲が暴走すれば、嫉妬や執着となり、さらに大きな苦しみを生み出すこともあります。
不倫の問題は「バレるか」ではなく「どんな種をまいているか」
不倫について考えるとき、
「どうすればバレないか」
というところに意識が向きがちです。
しかし仏教の因果の道理から見れば、問題の本質はそこではありません。
バレるか、バレないかではなく、自分がどんな行いをしているか。
そこが重要です。
誰にも知られなかったとしても、自分の行いがなくなるわけではありません。
行いを「種」とすれば、結果はその種から生じる「実」です。
だから仏教では、未来の結果だけを恐れるのではなく、今、自分がどんな種をまいているのかを見つめることが大切だと教えられます。
まとめ|不倫の代償から仏教が教えること
不倫は「バレなければいい」という単純な問題ではありません。
秘密を抱えることで不安が生まれ、嘘が増え、家族との関係にも変化が現れます。
発覚すれば、夫婦関係や家族関係、金銭、信用など多くのものを失う可能性があります。
そして仏教では、不倫などの道を外れた性的行為を「邪淫」として戒めています。
しかし、さらに深く見ていけば、邪淫を生み出す根底には私たち自身が持っている愛欲があります。
「愛されたい」
「分かってほしい」
「寂しさを埋めたい」
この心は誰にでもあります。
だから不倫をした人だけを責めて終わるのではなく、自分の中にも同じ愛欲があることを知り、その欲に振り回されない生き方を考えることが大切なのではないでしょうか。
不倫がバレるかどうかよりも大切なのは、今、自分はどんな行いをしているのか。
仏教の因果の道理は、そこに目を向けることを教えているのです。
感想
不倫はバレなければいいと思いがちですが、仏教の教えからすれば、まいた種は必ず生えるので必ずバレてしまうことになります。どれほど巧妙に隠しても、日常の違和感でバレてしまう。
また不倫は決して他人事ではなく、誰の心にもある愛欲がある限り、縁が来たらやってしまうことだとわかりました。だから普段から自分の行動にも注意しなければならないと思いました。
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