ささいな行いをムダだとは思わない
努力できる人と努力できない人は思考が違う。
その思考とは、「まかぬ種は絶対に生えぬ」「まいた種は必ず生える」です。
これを知るか知らないかで努力できるか努力できないかが分かれます。
種というのは「行い」のことです。
仏教では「行い」のことを「業」といいます。
「業」の種によって果報の実を結ぶことができると教えられます。
よい行いをすれば、「幸せ」になれますし、悪い行いをすれば「不幸」が生じます。
この教えを仏教では因果の道理といいます。
因果の道理がよくわかると、「ささいな行い」をムダだとは思わなくなります。
善を軽んずるな。水が一滴ずつでも滴り落ちるならば、水瓶でも満たされる。気をつけている人は、水を少しずつでも集めるように善を積むならば、やがて福徳にみたされる。
(ダンマパダ)
善を軽んずるな、とはこんな小さな善をやってもムダだと軽んじてはなりませんよ、ということ。
水瓶に一滴一滴水が滴り落ちるように、コツコツとよい行いを続けると水瓶が一杯になるように、幸せになることができる。
ささいなよい行いを習慣化していくことが大事。
今日一日やるかやらないかで、会社での評価や収入が変わるわけではないが、毎日毎日コツコツと努力していく人と努力をサボる人では、やがてとんでもない結果の違いが生まれます。
悪い行いも同じこと。
悪を軽んずるな。水が一滴ずつでも滴り落ちるならば、水瓶でも満たされるのである。愚かな者は、水を少しずつでも集めるように悪を積むならば、やがてわざわいにみたされる。
(ダンマパダ)
ちょっとした嘘、ちょっとしたサボり、そういうことを重ねていくと悪い行いで水瓶が一杯になるように災いでみたされる。
これは仕事だけでなく、家庭などの人間関係でもいえる。
夜遅く帰る時に、家族に心配かけないためにメールを送るか送らないかで違ってくる。
それはすぐに結果となって現れないが、5年、10年、20年と経つと温かい家庭か、冷たい家庭かに分かれることとなる。

すぐに結果がでなくてもいいと思っている
「まいた種は必ず生える」ですがすぐに結果がでるものもあれば、しばらく経って結果がでるものもあれば、そうとう経ってから結果が現れるものもある。
仏教では因縁が結びついたとき、結果が現れると教えられます。
「因」というのは行いの種。「縁」というのは人や環境のこと。
どんなに種をまいても縁が来ないと実にはなりません。
野菜でいうと、カボチャの種を今日まいても明日実になるわけではないですね。
カボチャができる季節にならないと実にならない。
まいた種がすぐに結果として現れるわけではないですが、すぐにでないもののほうが後で大きな結果がでて楽しみだ、というくらいの思考になると努力できます。
努力できない人の思考
こんな小さな行いはやってもムダだ、と思うようになると努力は続きません。
一攫千金のような大きな仕事、とかみんなから評価の受ける晴れ舞台、などでは緊張してやる気も起こります。
しかし、みんなからあまり評価されない、大したことのないような地道な場では手を抜く。
こんなささいなことでは意味がないと思ってしまう。
地味でコツコツ続ける日常のことをおろそかにする。
どんなに小さな行いでもムダは絶対にない。
一まいたなら一の結果は必ず出る。
三まいたら三の結果は必ず出る。
どんなにひどい状態になっても、そこからよい種まきをしていれば結果は必ずよくなる。
いきなり一遍に変えることはできないが、コツコツやっていけば思わぬ道がひらけることはいくらでもある。
これが因果の道理です。
今更何をやってもムダ、ということは絶対にない。
誰かが見ている見ていないに関わらず、まいた種は必ず生えるということがわかれば、人に見られていなくてもよい行いをしようという気持ちになります。

感想
努力できる人は、まいた種は必ず生える、ということを知っている人だという。やればやっただけの結果がでる。一まいたら一の結果。三まいたなら三の結果が出る。
どんなにささいな行いも決してムダではないことを知ると、ささいなことを疎かにしてはいけないという気持ちにさせられます。どうしてもささいなことはやっても意味がないと思ってしまうが、改めて教えを学ぶと反省させられます。
因果の道理を知ると幸せになる原理原則がわかり、自分の行動を変えていくことができます。向上心もわき、さらに頑張ろうという気持ちにさせられるので、人生にとても役に立ちます。
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