「人は死んだらどうなるのだろう」
普段はあまり考えたくない問題かもしれません。
仕事をして、家族と過ごし、趣味を楽しんでいるときには、死を身近な問題として考えることはほとんどないでしょう。
しかし仏教では、生あるものは必ず死に帰すと教えられています。
どれだけ健康な人でも、どれだけ財産を持っている人でも、いつか必ず死と向き合わなければなりません。
では、いよいよ自分が死ぬとなったとき、私たちは何を頼りにできるのでしょうか。
今回は、蓮如上人の言葉を通して、死後の問題と仏教が教える人生の目的について考えてみたいと思います。
「まことに死せんとき」――蓮如上人の言葉
室町時代の蓮如上人は、死を迎える人間の姿について次のように言われています。
まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も、わが身には一つも相添うことあるべからず。されば死出の山路のすえ・三途の大河をば、唯一人こそ行きなんずれ。
現代の言葉でいえば、
「いよいよ死ななければならなくなったとき、それまで頼りにしてきた妻や子供、財産も、一つとして持っていくことはできない。最後はただ一人で死んでいかなければならない」
ということです。
私たちは普段、さまざまなものを頼りにして生きています。
家族、お金、仕事、健康、地位、名声、才能、美貌などです。
もちろん、これらは生きていくうえで大切なものです。
しかし蓮如上人は、「まことに死せんとき」には、それらをすべて置いていかなければならないと教えられています。
人間が本当に恐れているものは「死」ではないか
私たちは人生でさまざまなことを恐れます。
がんや脳梗塞、心不全などの病気。地震や津波などの災害。戦争や事故、事件なども恐ろしいものです。
なぜ、それらを恐れるのでしょうか。
もちろん苦痛や生活への影響など、理由は一つではありません。
しかし、その恐怖を突き詰めていけば、その先には**「死ぬかもしれない」**という問題があります。
死は普段、できるだけ考えないようにしている問題です。
まだ自分は死なない。
死ぬのはずっと先のことだ。
そう思っている間は、死後について真剣に考えることはなかなかありません。
しかし「今から死ぬ」となったらどうでしょうか。
ドイツの哲学者パウル・ティリヒも『生きる勇気』の中で、人間が死そのものの不安と真正面から向き合うことの難しさを論じています。
死は、それほど私たちにとって大きな問題なのです。
死ぬときには妻子も財産も持っていけない
今は頼りになるものでも、死を前にすれば頼りにならなくなるものがあります。
どれだけお金を持っていても、お金を持って死後の世界へ行くことはできません。
どれだけ社会的地位が高くても、その肩書を持って死んでいくことはできません。
健康も、若さも、美貌も、才能も残していかなければなりません。
そして何よりつらいのが、愛する人との別れです。
仏教ではこれを**「愛別離苦(あいべつりく)」**といいます。
愛する人とは、いつか必ず別れなければならない。
家族との別れだけでも大きな苦しみです。
まして死を迎えるときには、家族、財産、仕事、健康など、それまで頼りにしてきたものすべてと別れなければなりません。
だからこそ蓮如上人は、
「まことに死せんとき」
と、死を自分自身の問題として見つめることの大切さを教えられているのです。
死んだらどこへ行くのか――「後生」という問題
仏教では、生まれてから死ぬまでを**「今生(こんじょう)」といい、死後を「後生(ごしょう)」**といいます。
死を真剣に見つめたとき、
「自分は死んだらどうなるのだろう」
「死後、私はどこへ行くのだろう」
という問題が出てきます。
元気なときには、
「死んだら無になる」
「死んだら天国へ行く」
などと考えていても、いよいよ自分自身が死ぬとなったとき、本当にそうだと言い切れるでしょうか。
死後を実際に迎えた経験はありません。
だからこそ、自分の行き先が分からないという不安が生じます。
仏教では、この**後生が暗い心を「無明の闇(むみょうのやみ)」**と教えられます。
「今死んだら、私はどこへ行くのか」
それが分からない暗い心です。
後生の一大事についてはこちらも

なぜ死後が分からないことが「今」の問題なのか
「死後のことなら、死ぬ間際に考えればいいのではないか」
と思う人もいるでしょう。
しかし仏教では、後生の問題は死んでからの問題だけではないと教えられます。
行き先が分からないからこそ、現在の人生にも根本的な不安が残るからです。
どれだけお金を得ても、
どれだけ仕事で成功しても、
どれだけ多くの人から認められても、
最後にすべてを失って死んでいかなければならないとすれば、
「では、私は何のために生きているのか」
という問いが残ります。
死の問題を突き詰めることは、そのまま人生の目的を問うことにつながっていくのです。
親鸞聖人が明かされた人生の目的
では、何のために私たちは生きているのでしょうか。
親鸞聖人は、阿弥陀仏の本願によって、無量光明土に至る大船に今生で乗せていただくことを明らかにされています。
本願の船に乗せていただいたとき、後生暗い無明の闇が破られる。
これを**「破無明闇(はむみょうあん)」**といいます。
そして無明の闇が破られた心の世界を、**「無碍の一道(むげのいちどう)」**ともいわれます。
何が起きても人生の目的が崩れない世界です。
この変わらない安心と満足の境地を、分かりやすく**「絶対の幸福」**と表現することもあります。
阿弥陀仏の本願について書かれた「歎異抄」とは

死を見つめることは、生きる意味を見つめること
死について考えることは、決して暗いことだけではありません。
むしろ死があるからこそ、
「限られた人生を何のために生きるのか」
という問いが切実になります。
普段は家族や仕事、お金、健康、地位などを頼りにして生きています。
それらはもちろん大切です。
しかし「まことに死せんとき」には、すべてを置いていかなければなりません。
そのとき、
「自分はどこへ行くのか」
という後生の一大事が残ります。
だからこそ仏教は、死を遠い未来の出来事として片づけるのではなく、今、生きている間に解決すべき問題として教えているのです。
死を見つめることは、生きることを見つめること。
「死んだらどうなるのか」という問いは、やがて、
「私は何のために生きているのか」
という人生の根本問題へとつながっていきます。
その問いに答えを与え、無明の闇を破って無碍の一道に出ることこそ、親鸞聖人が明らかにされた人生の目的なのです。
「なぜ生きる」について書かれた本
感想
いよいよ死ぬとなったとき、頼りにしてきたものはすべて捨てていかなければならない。そして後生どこへ行くのか暗い心になるといいます。その暗い心を破ることが今生、生きている間に果たさなければならないことだとわかりました。
後生の一大事については、仏教を学ばなければわからなかったことです。仏縁を結べてよかったです。

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