人間の慈悲と阿弥陀仏の慈悲

要約

■ 慈悲に聖道・浄土のかわりめあり (歎異抄 第4章)

・ 慈悲といわれるものに二つありますよとかかれている

→ 聖道の慈悲、浄土の慈悲がある

・ 仏教とは慈悲の教え

→ 慈悲とは抜苦与楽

・ 聖道の慈悲

→ 人やものをかわいそうと思い、愛おしみ育んで守り育てようとするもの

→ 人間の慈悲

☆ しかれども、思うがごとく助け遂ぐること、極めてありがたし。 

→ しかしながら、思うように助けきることはできない

☆ 今生に、いかにいとおし不便と思うとも、存知のごとく助け難ければこの慈悲始終なし

→ 今生いかに愛おしく思ってかわいそうだと思って、お金を渡したり健康のサポートをしても結局は苦しみの人生は続くし、いつかは死んでいかなければならない。これで助け切ったというゴールはない

・ 浄土の慈悲

→ 浄土の慈悲とは弥陀の慈悲 阿弥陀仏によって作られた大悲の願船によって救われる

☆ 大悲の願船に乗じて、光明の広海に浮かびぬれば 

→ 大悲の願船に乗ったというときがある。苦しみの海が光り輝く明るい人生にがらりと変わる

・ 大悲の願船に乗せていただいて苦しみの人生が幸せの人生に変わることを信心決定という

☆ 浄土の慈悲というは、念仏して急ぎ仏になりて大慈大悲心をもって思うがごとく衆生を利益するをいうべきなり。

→ 浄土の慈悲というのは急いで信心決定して念仏する身となり、早く仏になる身になりなさい。大悲の願船に乗せていただいた人は死ぬと浄土に往って仏になれる。そうなったら仏の大慈大悲心を持って今度は苦しみ悩んでいる人たちに、この大悲の願船のあることを伝えずにおれなくなる幸せな身になれますよ。

☆ しかれば念仏申すのみぞ、末徹りたる大慈悲心にて候べき、と云々。

→ 弥陀の本願に救われ念仏申す身になることが徹底した慈悲、完成した慈悲という

■ 浄土の慈悲に救い摂られた時に聖道の慈悲に感謝できる

感想

慈悲には聖道の慈悲と浄土の慈悲があるという。聖道の慈悲は人間の慈悲で、浄土の慈悲は阿弥陀仏の慈悲。慈悲とは2つあることを知っている人はあまりいないだろう。世間一般に知られている慈悲とは聖道の慈悲のことだと思う。浄土の慈悲を知っている人は少ないはずだ。

人間の慈悲には限界があり、どれだけ苦しみを救っても最後は死んでいかなけれならない。それだけでも人間の慈悲は素晴らしいと思うが、阿弥陀仏の慈悲は死ぬと浄土へ往って仏に生まれることができることだという。確かに浄土へ往って仏に生まれれば素晴らしいと思うが、あまり実感がわかない。死後のことは想像するだけで、現実離れしていてなかなか理解できない。

まだまだ、聴聞が足りていないから理解できないのかもしれない。

仏法は聴聞に極まる。

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この記事を書いた人

1983年生まれです。
仏教を学んでよりよい人生をおくりたいです。
みなさん一緒に学びましょう。

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