生きている今、救われる

要約

弥陀の誓願不思議に助けまいらせて往生をば遂ぐるなりと信じて念仏申さんと思いたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。  (歎異抄 第一章)

摂取不捨の利益  =  阿弥陀仏にがちっとおさめとられる。絶対に捨てられることのない幸福

→  老いがきても病がきても死がきても崩れない幸せ

念仏称えようと思いたつとき

→  信の一念  心の闇が晴れた一念 

→  行の一念  心の闇が晴れてから一回目の念仏

どういう心になって念仏称えるときか 

弥陀の誓願不思議に助けまいらせて、とは?

→  不思議な本願が不思議と知らされて救われたということ 言葉にできない想像もできないこと  

往生をば遂ぐるなりと信じて、とは?

→  間違いなく往生できるとはっきりと知らされたこと

阿弥陀仏に救いとられた体験  

→  此の一流のうちに於て、確々とその信心のすがたをも得たる人これなし。かくの如く輩は、いかでか報土の往生をば容易く遂ぐべきや。一大事というは是なり (蓮如上人)

たのむ一念のとき 摂取不捨の利益 往生一定 御たすけ治定、とは?

→  浄土にいって仏に生れることがきまったこと

感想

浄土真宗は生きている今、救われると説かれる。生きている今、極楽浄土へいき仏に生れることがきまることだという。それが後生の一大事の解決ということだ。

極楽浄土へいき仏に生れることがきまったことを、摂取不捨の利益、往生一定、絶対の幸福などいろんな言葉でいいあらわされている。

最初は意味が分からなかったが、聴聞を重ねていくとしだいにわかってくるところが面白い。仏法は聴聞に極まるといわれる理由がわかる。

聴聞を重ねていくと、仏教で説かれていることはすべて弥陀の救いにあうことに結実するように感じる。親鸞聖人も蓮如上人も言葉は違うが同じことを説かれていることがわかってきた。

仏教の説かれている意味が分かってくると、聴聞が楽しくなってくる。これからも続けて聞いていきたい。

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