「どうして人の行動は変わらないのか」
「なぜ同じことを繰り返してしまうのか」
そんな疑問を感じたことはないでしょうか。
仏教では、人の人生を決めるのは行動そのものではなく、その根本にある”心”であると教えられています。
同じ言葉、同じ行動であっても、その人の心によって結果は大きく変わります。だからこそ仏教は、何よりもまず「心のあり方」を重視するのです。
この記事では、
・なぜ仏教は心を重視するのか
・人生を決める三つの行い(三業)とは何か
・親鸞聖人が見つめられた人間の心の実態
をわかりやすく解説します。

源信僧都の歌に学ぶ|仏教とは自分の心を見つめる教え
約1000年前、平安時代中期に源信僧都という僧がおられました。
源信僧都は次のように詠まれています。
よもすがら
仏の道に入りぬれば
わが心にぞ
たずね入りぬる
一晩中、仏道修行に励んでいると、いつのまにか自分の心の中に入り込んでいく——そのような意味です。
これは仏教の本質をよく表しています。
仏教を聞くとは、単に知識を学ぶことではありません。自分の心を見つめ、自分の内面に向きあっていくことです。
仏教の三業とは?人生を決める三つの行い
仏教では、人間の行いを「三業(さんごう)」といいます。
業とは行いのことで、インドではカルマともいいます。
三業とは次の三つです。
・身業:体で行うこと
・口業:口で話すこと
・意業:心で思うこと
この三つの行いが、私たちの幸せや不幸を決めるとされています。
この三業は、仏教で説かれる因果の道理と深く関係しています。

なぜ心(意業)が最も重要なのか
三業の中でも、特に重視されえるのが意業(心の行い)です。
なぜなら、すべての行動の出発点は心にあるからです。
・口で話すことは、心で思っていることが表れたもの
・体で行うことも、心で思ったことが行動になったもの
つまり、心が変わらなければ、言葉も行動も変わらないのです。
だからこそ仏教では、「心こそが人生を決める」と教えられています。
仏道修行とは何か|大切なのは心の向き
仏道修行は「行を修める」と書きます。
これは善い行ないを積み、悟りを目指すことです。
しかし仏教では、ただ行動するだけでは不十分とされます。
同じ善い行いでも、
・見返りを求める心で行うのか
・純粋な心で行うのか
によって、その意味は大きく変わるからです。
心で犯す罪とは|五逆罪に見る人間の本性
仏教には「五逆罪」という重い罪があります。その一つに「親を殺す罪」があります。
しかしこれは、実際に手をかけることだけを指すものではありません。
親鸞聖人は次のように教えられています。
親をそしる者をば五逆の者と申すなり
つまり、心の中で、
「邪魔だ」「早くいなくなってほしい」
と思うことも、すでに心で親を傷つけていることになるのです。
心で思うことは、やがて縁がそろえば行動として現れます。だからこそ仏教は、行動以上に心を重視するのです。
仏教は心を映す鏡である
お釈迦様は、仏教の教えを「法鏡」と説かれました。
法とは真実(ダルマ)のことです。法鏡とは、真実を映す鏡という意味です。
この鏡とは何を映すのでしょうか。
それは私たち自身の心です。
仏教を学ぶとは、外の世界を見ることではなく、自分の心のありのままの姿を映し出すことなのです。
親鸞聖人の求道|見つめた心の現実
親鸞聖人は9歳から29歳まで20年間、比叡山で厳しい修業をされました。
学問も修業も非常に優れており、外から見れば非の打ちどころがない修業者でした。
しかし、親鸞聖人はある問題に突き当たります。
それは、誰にも見えない自分の心の中でした。
親鸞聖人はこう言われます。
悪性さらにやめ難し
心は蛇蝎のごとくなり
自分の心は、
・人を妬む
・人の不幸を喜ぶ
・気に入らない相手を消えて欲しいと思う
まるで蛇や蝎のような恐ろしい心だと見抜かれたのです。
さらに、
修善も雑毒なるゆえに
虚仮の行とぞ名づけたる
どれだけ善い行いをしても、そこに打算や見返りを求める心があれば、それは偽りの善ではないかと深く悩まれました。
そして「このままでは自分は救われない」と絶望し、比叡山を下りられます。
法然上人との出会い|救いの道
その後、親鸞聖人は法然上人に出会われます。
そこで知らされたのが、阿弥陀仏の本願によって救われる道でした。
どれほど心が煩悩に満ちていても、そのままの自分で救われる道があると知られたのです。
ここに、親鸞聖人の大きな転機がありました。

まとめ|なぜ仏教は心を重視するのか
仏教が心を重視する理由は明確です。
それは、すべての行動の根本に心があるからです。
・心が言葉を生む
・心が行動を生む
・心が人生をつくる
だからこそ仏教は、まず自分の心を見つめることを教えます。
そして、その心の現実を知ったとき、初めて本当の救いの道が見えてくるのです。
感想
仏教では心の行いを一番重視するという。体の行いも口の行いも心がもとになっているから。だから心が問題になってくる。しかし、心の中で思うことは蛇や蝎のようにゾッとすることを思ってしまう。誰にも知られたくないことだが、すべての人の心はそうなっている。
心の行いを徹底的に見つめると、自分は悪しかできないと思える。とても清らかな心など持っていない。そんな自分が救われるはずもないとも思えてくる。しかし、そんな悪人を相手に救うと誓われたのが阿弥陀仏の本願だという。
阿弥陀仏の本願誠だったと知らされるまで聴聞を続けていきたい。
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