『歎異抄をひらく』

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善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。これは「歎異抄」三章の一節ですが、とても有名な一文です。その訳は善人でさえ、浄土へ生まれることができるのだから、ましてや悪人は、なおさら往生ができる、という意味です。

悪人はなおさら往生できる、と聞いて耳を疑いたくなる気持ちを抱きます。善人ならなおさら往生できる、だったら納得がいきますがなぜ悪人なのでしょう。

親鸞聖人がいう悪人と世間一般の悪人とでは認識が違うからです。親鸞聖人のいう悪人とは全人類のことであり、法律違反をした人ではありません。全人類が悪人だということはもちろん自分もその中に含まれるということです。

親鸞聖人のいわれる悪人とはいったいどういうことか。また、そんな悪人が救われるためにはどうしたらいいのかが「歎異抄」にはあきらかにされています。

書籍

著者 高森顕徹

昭和4年、富山県生れ。

龍谷大学卒業。

日本各地や海外で講演、執筆など。

著書「光に向かって100の花束」「光に向かって123のこころのタネ」「光に向かって心地よい果実」「なぜ生きる」(監修)「親鸞聖人の花びら」桜の巻・藤の巻「なぜ生きる2」など多数。

第一章 仏法の肝要、を言われた親鸞聖人のお言葉

(中略)弥陀の救いには、老いも若きも善人も悪人も、一切差別はない。ただ、「仏願に疑心あることなし」の信心を肝要と知らねばならぬ。

なぜ悪人でも、本願を信ずるひとつで救われるのかといえば、煩悩の激しい最も罪の思い極悪人を助けるために建てられたのが、阿弥陀仏の本願の真骨頂だからである。

阿弥陀仏に救われるためには信心を獲得しなければならないが、そのためには阿弥陀仏の本願に疑いの心が晴れるまで聴聞を続けることだといいます。

僕自身は、聞く一つで救われると知ったときになんて簡単な教えだろうと思いました。しかし、実際聞き始めると真剣に聞くということの難しさを感じました。また、聞き続けていると阿弥陀仏の本願に対して疑う心がでてきます。

阿弥陀の本願に対して疑いの心が晴れるまで聴聞を続けることがどれだけ大変かを身をもって感じています。

「善も要らない、悪も怖くない」あなた、こんなことが信じられますか? 「歎異抄」の言葉

(中略)地獄より行き場のない無類の極悪人と知らされた聖人に、もはや恐れる悪などあるはずがなかろう。最高裁で死刑が確定した罪人に恐れる判決がないのと同じだ。

弥陀の本願を信じ救われれば、疑いなく助からぬ地獄一定の自己と、疑いなく救われる極楽一定の自己が同時に知らされる不思議な、いわゆる二種深信の世界に生かされる

親鸞聖人は自分が地獄行き間違いない身だと知らされたという。そして間違いなく極楽へゆける身だということも知らされた。

阿弥陀仏の本願に救われると、この相反する世界が同時に知らされる。まず、自分が地獄行き間違いないと思うことができるか。なかなかそう思うことはできない。

自分は地獄行き間違いないとは一つの善もできないということです。僕自身、善が一つもできないといわれて反発する気持ちが強かった。しかし、人間ができる善とは「雑毒の善」といわれる見返りを求める善しかできないということです。その「雑毒の善」とは仏の眼からみれば善とはいえないという。

(中略)人間はみな煩悩の塊、永遠に助かる縁なき「悪人」と阿弥陀仏は、知り抜かれたからこそ”必ず救う”と誓われたのだ。これぞ、弥陀の本願の真骨頂なのである。聖人の言われる「悪人」は、このごまかしの利かない阿弥陀仏に、悪人と見抜かれた全人類のことであり、いわば「人間の代名詞」にほかならない。

地獄しか行き場のない人間を必ず救うと誓われた、それが阿弥陀仏の本願だという。人間は煩悩の塊で、一生悪を造り続けているといいます。

だから、阿弥陀仏に助けてもらうしかない。それが理解できるまで仏法を聞き続けていくしかない。

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この記事を書いた人

1983年生まれです。
仏教を学んでよりよい人生をおくりたいです。
みなさん一緒に学びましょう。

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