「みんながやっているから」
私たちは、この言葉にどれほど影響されているでしょうか。
人は集団の中にいると、多数派に合わせたくなるものです。しかし、本当に正しい行動は、時として群から離れ、一人になる勇気を必要としています。
いじめで見える「群れる人」と「まともな人」の違い
学校のクラスでいじめが起きると、多くの場合、首謀者が一人います。
しかし、いじめは首謀者一人では成立しません。
その周りに、
・首謀者に同調する人
・笑って見ている人
・見て見ぬふりをする人
がいることで、いじめは大きくなっていきます。
なぜ加担してしまうのでしょうか。
それは、
「自分が標的になりたくない」
「仲間外れにされたくない」
という恐れがあるからです。
しかし、そのような状況でも、いじめられている人に普段通どおり話しかけられる人がいます。
その人は、周囲に流されず、自分で善悪を判断できる人です。
たとえ孤立する可能性があっても、正しいと思う行動を選ぶ人こそ、本当にまともな人といえるでしょう。
友達の数で幸せが決まるのではない

正しい行動は孤独を伴うことがある
群れと違う方向へ進めば、孤独になることがあります。
だからこそ、多くの人は「正しい」と思っていても行動できません。
しかし、歴史を変えてきた人たちは、皆、最初は少数派でした。
世の中をより良くしてきたのは、多数派に流された人ではなく、勇気をもって一歩踏み出した人たちです。
勇気ある一人の行動が、周囲の空気を変え、やがて社会全体を変えていくのです。
孤独は山の中ではなく街の中にある
哲学者・三木清は
孤独は山の中にあるのではなく街の中にある
という言葉を残しています。
人は囲まれていても、本当に理解し合える人がいなければ孤独を感じます。
反対に、一人でいても、自分を信じる道を歩んでいる人は、心が充実しています。
孤独とは、一人でいることではなく、自分の信念を持てないことなのかもしれません。
親鸞聖人が歩まれた孤独の道
親鸞聖人は、
真の知識にあうことは かたきが中になおかたし
と教えられています。
本当に人生を導いてくれる正しい仏教の先生に出会うことは、極めて難しいという意味です。
親鸞聖人ご自身も、その教えを生涯貫かれました。
35歳のとき、一向専念無量寿仏の教えを説いたことで越後へ流罪となります。
当時は、加持祈祷や現世利益を求める信仰が広く行われていました。
その中で親鸞聖人は、
「阿弥陀仏の本願によって救われる」
という教えを、一生涯変えることなく説き続けられました。
世間の多数派に迎合することなく、真実と信じた道を歩み続けられのです。
まさに、群れとは反対の方向へ、一人歩まれた人生でした。
親鸞聖人はなぜ流刑になったのか

まとめ|群れない勇気が人生を変える
人は誰でも、孤独になることを恐れます。
しかし、周囲に流されて間違った行動を取るよりも、孤独になっても正しい行動を選ぶ方が、自分の人生を誇れる生き方ではないでしょうか。
学校のいじめでも、職場でも、社会でも、本当に世の中を良くするのは、群れに流されず、自分の良心に従って行動する人です。
親鸞聖人の歩みは、そのことを私たちに教えてくださっています。
「みんながそうするから」ではなく、
「本当に正しいことは何か」
その問いを持ち続ける人こそ、人生をより良い方向へ導いていけるのではないでしょうか。
感想
間違った方向へ進む群れの中から、独り反対の方向へ進むのは勇気のいることだと思います。みんなから変な奴と思われるし、何か嫌な事をされる危険もあります。しかしまともな人というのは独りを恐れないという。世の中を変えるには群れていては変えられないとわかりました。
僕の中学生時代、クラスの中でいじめがありました。いじめられていた子といじめている子は、もともと仲が良く友達同士でした。僕とも仲が良く三人で遊ぶこともあった。しかし、二人の仲が悪くなりいじめが始まりました。いじめる子に加担する子もでてきてが、僕はいじめることはなかったし、いじめられていた子とは普通に会話はしていました。しかしいじめる子はだんだん素行が悪くなり不良と呼ばれるようになっていきました。睨まれたら嫌だなと思っていたが、いじめる子に無理して同調することはありませんでした。あのとき、いじめに加担しなくてよかったと思っています。
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