死が来ても崩れない幸せとは?『歎異抄』が教える「摂取不捨の利益」を分かりやすく解説

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私たちは毎日、幸せになるために生きています。

どんな選択をするときも、「こちらのほうが幸せになれそうだ」と思う道を選んでいます。しかし、その幸せは本当に永遠に続くものなのでしょうか。

『歎異抄』には、どんな状況になっても失われることのない究極の幸福として「摂取不捨(せっしゅふしゃ)の利益」が説かれています。

この記事では、「摂取不捨の利益」とは何か、そしてなぜそれが人生最高の幸せといわれるのかを、仏教の教えをもとにわかりやすく解説します。

目次

摂取不捨の利益とは

『歎異抄』に説かれる摂取不捨の利益の「利益」とは、お金が増えるという意味ではありません。

仏教でいう摂取不捨の利益とは、本当の幸福を意味します。

それは年齢や能力、善人か悪人かに関係なく

・子供でも高齢者でも

・善人でも悪人でも

・男性でも女性でも

誰もが得ることのできる幸福です。

人はなぜ幸せを求め続けるのか

人は誰でも幸せになるために生きています。

朝起きてから夜眠るまで、私たちは無数の選択をしています。

・何を食べるか

・どこへ行くか

・どんな仕事をするか

・誰と付き合うか

そのすべては、「より幸せになれる」と思う方を選んでいるのです。

つまり、人間の行動はすべて幸福を求める心から始まっています。

私たちが追い求める幸せは永遠ではない

多くの人は次のようなものに幸せを求めます。

・お金

・地位

・名声

・才能

・健康

・家族

・友人

・容姿

もちろん、これらは人生を豊かにしてくれる大切なものです。

しかし仏教では、これらはすべて「有為転変(ういてんぺん)」の世界にあるものだと説かれます。

有為転変とは、

・少しずつ変化していくこと(変質)

・一瞬で失われること(崩壊)

を意味します。

健康だった人が突然病気になることもあります。

裕福だった人が一夜にして財産を失うこともあります。

愛する家族とも、いつか必ず別れの日が訪れます。

この世に永遠に変わらないものはありません。

「薄氷の不安」とは何か

仏教では、人間の人生を薄い氷の上を歩いているようなものとたとえます。

慎重に歩いていても、

「今日は大丈夫。」

「明日もきっと大丈夫。」

と思っていても、いつ氷が割れるかは誰にもわかりません。

そして、どれほど注意して歩いていても、最後には必ず氷は割れます。

それが「死」です。

このように、今の幸せがいつ失われるかわからない不安を、仏教では「薄氷の不安」と教えています。

どれほど成功している人でも、この不安から逃れることはできません。

死が来ても崩れない幸せがある

では、死によって失われない幸せはあるのでしょうか。

親鸞聖人は、「ある」と教えられました。

それが摂取不捨の利益です。

摂取不捨の利益とは、老いが来ても、病気になっても、死が来ても崩れない幸福のことです。

歎異抄に説かれている阿弥陀仏の本願について

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まとめ

私たちは、お金や健康、家族などに幸せを求めて生きています。

しかし、それらはすべて有為転変であり、いつか必ず失われます。

だからこそ、人は心のどこかで「薄氷の不安」を抱えながら生きています。

『歎異抄』が教える摂取不捨の利益とは、そのような不安を根本から解決する幸福です。

死が訪れても決して崩れない幸せがあることを知ることが、仏教を聞く大きな目的なのです。

感想

摂取不捨の利益とはたとえ死がやってきても崩れない幸せだとわかりました。その身になることができたなら、薄氷の不安もなくなり、慎重に歩く必要もなくなります。

お金、名声、地位、才能、健康、妻子、友人、容姿は日々追いかけている幸です。これらは相対の幸福といい、手に入れたらもうこれでいいと満足することはなく、もっと欲しいと思うといいます。しかし、手に入れても続かない幸せであり、死を前にしたら総崩れの幸せだといいます。そんな中、老いと病と死がきても崩れない幸せがあることがわかりました。その幸せの身になれるまで聴聞を続けていきたいです。

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この記事を書いた人

1983年生まれです。
仏教を学んでよりよい人生をおくりたいです。
みなさん一緒に学びましょう。

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