要約
生きるために生きる
行動 → 目的(意味)
タクシーに乗る → 駅まで
勉強をする → 資格をとる
歩く → 気分転換
生きる → ?
どう生きるかとなぜ生きるか
越えなばと 思いし峰に来てみれば なお行先は山路なりけり
トルストイと歎異抄
感想
生きる意味は必要なのか? 意味などなくても生きていける。仏教を聞くまでの僕自身は、人生に意味などは求めていなかった。ただ人間関係が良くなればいいと思っていた。なぜなら、学生時代人間関係がうまくいかず、生きづらさを感じていた。その時は人生はなぜあるのだろうと思うことがあった。それが社会人になり、それなりに人付き合いもできるようになってくると、人生の意味を考えることはなくなっていった。
仏教を聞き始めると、どう生きるかと、なぜ生きるかの違いがわかった。最初はよくわからなかったが、聴聞を重ねるごとになぜ生きるかというのは人生の目的は何かということだと知らされた。
人生の目的がはっきりすることで、そのためにどう生きるかということも大切になってくる。
老いがきても病になっても死が来ても崩れない幸せ、絶対の幸福になることが人生の目的であると仏教では説かれている。僕はまだ絶対の幸福になってはいないけれど、人生の目的といえるものがみつかった。
仏教は聴聞を重ねないとわからないことばかりだ。しかも最初は自分のもっている価値観から仏教の教えを否定したくなることが多い。それでも聞いていると、そういわれればそうだなと納得いくことが増えてくる。
絶対の幸福も、はじめはそんなものないと思っていたが、今は絶対の幸福というものがあるならその身になってみたいと思うようになった。どうすればその身になれるのかというと仏教は聴聞に極まるといわれる。
仏教に人生の目的が教えられている。そんなこと考えもしなかった。
ただ仏教の教えに畏敬の念をいだくばかりだ。
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