要約
念仏者は無碍の一道なり (歎異抄 第七章)
念仏者 = 弥陀に救われ念仏称えている人
阿弥陀仏の本願に救われた人とは
→ 阿弥陀仏の本願の船に乗せられた人のこと 信心決定
仏教を聞く目的は信心決定するためと親鸞聖人はいわれる
無碍の一道とは
→ 弥陀の本願の船に乗せていいただくと、でることができる世界
→ 煩悩が障りにならなくなったたった一本の道
人間の代表的な煩悩 三毒の煩悩
→ 欲 怒り 愚痴(ねたみ、そねみ)
→ 欲は不平不満をいわせる心
→ 欲が満たされず邪魔されると怒りの心が湧き起こる
→ 人と比較して自分よりも優れている人に、ねたみ、そねみの心が湧く
仏教では人生を生死の苦海とたとえられる
→ 人間は大海で煩悩の波に苦しむ
人間は煩悩の波によって溺れている
→ お金 仕事 家庭などにすがり一時的に楽になるが、大きな波によってひっくり返り苦しむ
→ どんな幸せも煩悩が邪魔をするから続かない
弥陀の本願の船に乗ってしまえば、煩悩の波がいくらあっても邪魔にならない
無碍の一道とは煩悩がまったく邪魔にならない絶対の世界
なぜ、煩悩が邪魔にならないか?
願力無窮にましませば 罪業深重もおもからず (親鸞聖人)
人間の罪悪は10トンの巨岩のように重いといわれる しかし弥陀の本願の船に乗れば10トンの罪悪でも沈まない
→ 弥陀の本願の船に乗せていただいても、煩悩、罪悪が減ることはない
→ 死ぬまで煩悩の波はなくならない
感想
煩悩があるままで救われる。それが弥陀の本願の船に乗せていただくことだという。どれほど煩悩によって罪を造っても沈むことのない船。煩悩が障りにならない世界。そんな世界が本当にあるのだろうか。
日々の生活の中で、欲、怒り、ねたみそねみによって苦しんでいる。煩悩に振り回されるのが人生、それが当たり前だと思っていた。
しかし、仏教では生死の苦海で溺れている人間を救う大きな船があると教えられる。弥陀の本願の船に乗ることができれば、煩悩が妨げにならないという。
親鸞聖人はその弥陀の船があることを生涯説かれた。ではどうすれば、弥陀の船に乗ることができるか。
仏法は聴聞に極まる。
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