要約
阿弥陀如来に救われた 助けられた
どう救われたのか?
往生一定 浄土へいける身になった
弥陀に救われるとは?
たのむ一念のとき、往生一定
願力無窮にましませば 罪業深重もおもからず 仏智無辺にましませば 散乱放逸もすてられず (親鸞聖人)
如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし 師主知識の恩徳も 骨を砕きても 謝すべし (恩徳讃)
すべての人よ、阿弥陀仏に救われた身になる、ただこの高僧の説を正しくききなさい。
感想
親鸞聖人がいわずにおれなかったのは、阿弥陀仏の本願力に救われたことだった。つまり、浄土往き間違いないこと、往生一定の身になることだという。
もし死んでから浄土往きがきまったのなら、老いがきても、病気になっても、死が来ても未来は明るいといえる。浄土へ往くことは幸せなのだから、絶対に崩れない幸せ、絶対の幸福、信楽、摂取不捨の利益ということか。
今、生きているうちに、浄土往き間違いないことが決まる。死んでみないとわからないじゃない。それが一念で救われるということ。
未来が暗いと、今を楽しめない。明日、がんの手術だとしたら今日は不安な一日になる。逆に明日はデートだったら今日は楽しい一日になる。
死んだあとが浄土往き間違いなかったら、未来は明るいから今も明るくなる。
仏教で説かれる後生の一大事の解決をいそぐ理由がなんとなくわかってきた。これも続けて聞いてきたからだ。
仏法は聴聞に極まる。
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