要約
凡夫のマコトはマコトがないのがマコト
仏のマコトはマコトがあるのがマコト
凡夫 = 人間
→ 人間の実態は真実がないのが真実の姿
→ 仏の実態は真実いっぱいなのが真実の姿
如来の作願をたづぬれば 苦悩の有情をすてずして 回向を首としたまひて 大悲心をば成就せり (親鸞聖人)
苦悩の有情 苦しんでいる私たち人間
回向を首としたまひて 与えることだけを考えていた
大慈悲心 南無阿弥陀仏
十方・三世の諸仏の悲願に洩れて、捨て果てられたる我等如きの凡夫なり (蓮如上人)
→ 大宇宙のあらゆる仏に見捨てられた私たち人間
感想
仏と人の違いは明確だった。仏の真実の姿とは真実いっぱいであり、人の真実の姿は真実がないという。人の三業とは悪業ばかりをつくっているが、仏の三業はずっと清らかで真実であるから真実いっぱいだといわれる。
人の心では悪業ばかりをつくるから、言動も行動も悪業になってしまう。悪業しかつくれないのなら人間は地獄に行くしかない。だから人間は仏がたから救いようがない存在だった。しかし阿弥陀仏は悪業しかつくれない人間を救うために南無阿弥陀仏を完成させられた。
仏というのは普段目にすることはないので、なかなか存在することに実感がわかない。人よりもはるかに素晴らしい存在なのはわかったが、自分と関係があるとは思えない。架空のものという意識しかない。
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