人生は死ぬまでの暇つぶしか?

要約

動物園にいる北極グマ  檻に入れられて同じところをぐるぐる回っているだけ

→  かわいそうだが三食食事があり野生のクマより生きやすい

野生の北極グマ  食料がなくて飢えに苦しむ 餓死してしまう

→  かわいそう

生きのびる 生きやすい = 幸せではない

便利  =  充実ではない

アジアやアフリカの原住民 狩猟採集生活

→  うつ病の割合が少ない

退屈  →  興奮 刺激

    →  ゲーム 仕事 恋愛 スポーツ 学問

人間から気晴らしを除いたら不安と倦怠のみである  (パスカル)

生死の苦海 ほとりなし  (親鸞聖人)

生死 = 苦しみ 悩み

苦海 = 苦しみの波のある人生

生きることとは海で泳ぐことのようなもの

どんなに頑張って泳いでも最後は死んでしまう

必ず死ぬのになぜ泳がなければならないのか?

海で泳いでいて疲れたときに休む丸太ん棒がある

→  ゲーム 仕事 恋愛 スポーツ 学問

これらの丸太ん棒はつかまっていてもひっくり返って塩水を飲んで苦しむことになる

生死の苦海 ほとりなし ひさしく沈める われらおば 弥陀弘誓の船のみぞ 乗せて必ず 渡しける    (親鸞聖人) 

親鸞聖人は大悲の願船という大きな船に乗せてもらえることを生涯説かれた

大悲の願船を目指して泳ぎ続けなければならない

どうしたら船に乗せてもらえるのか?

仏法を聴聞すること

感想

人生が退屈だと感じるときはある。刺激も興奮もないときだ。仕事、恋愛、スポーツ、その他、人生で必要なことをすべて退屈しのぎだといってしまえばそれまでだが、生きていくためには必要なことだと思う。

親鸞聖人は生きていくために必用な仕事、恋愛、スポーツ、その他いろいろなものを海に浮かぶ丸太ん棒だといわれた。丸太ん棒につかまっていると一時は休めてもひっくり返って塩水を飲んで苦しむことになる。

僕自身も仕事では人間関係に悩み、恋愛では求めているのに得られず、スポーツでは努力が報われないなど、辛いことをいくつも経験してきた。そのたびに別の丸太ん棒を見つけたが苦しみから逃れられることはない。

そんな苦しい人生の中に大きな船があると親鸞聖人はいわれた。大悲の願船である。大悲の願船に乗せていただければ、丸太ん棒につかまって塩水を飲むことがなくなるという。そんな船があるならぜひ乗せていただきたいと思う。

親鸞聖人は人生を苦海といいわれたが、たとえがとてもわかりやすい。生きることを泳ぐこととたとえられた。それじゃどこに向って泳ぐのか?が問われる。大悲の願船を目指して泳ぐことが大事だと説かれる。

仏教には生きる目的が説かれている。必ず死なねばならないのに、なぜ生きるのか?の答えがある。

仏教は哲学や学問の最終地点のように感じる。

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