要約
仏教で教えられる苦しみ → 怨憎会苦
嫌いな人とは? → 業が合わない 行い カルマ
→ ウマが合わない 相性がよくない
自分にとって嫌いな人でも他の人にとってはいい人となる場合がある
自分と違う人は敬遠する → 馬のなかにシマウマがいると敬遠する
→ シマウマの中に馬がいるとやっぱり敬遠する
合わないことを面白がる余裕があるとよい
その人によって何かが侵害されると嫌いになる
→ 自分の欲を邪魔されたとき嫌いになる
自分のやりたいことを応援してくれる人は好き
利害がからむと好き嫌いがはっきりする
→ 自分の都合のいい人は好き
→ 自分の都合が悪い人は嫌い
瞋 = 怒り 瞋憎 欲が邪魔されたとき
自分より目下のもの → 怒り
自分より目上のもの → 憎しみ
今嫌いな人は最初は好きだったことが大いにある
その人が悪人なわけではない そういう縁がきたのだと受け止める
不倶戴天の仇 → この天下に一緒にいられない人
深く無常を念じて、徒に後悔を胎すことなかれ (親鸞聖人 教行信証)
感想
自分にとって嫌いな人は他の人にとっていい人の場合がある。たしかにそうだなと思う。
僕自身では職場で嫌われている人がいるが、僕にとってはとてもいい人と思える人がいる。仕事をいろいろ教えてくれるし、雑談をしても楽しく話しをすることができるからだ。僕にとっては都合のいい人だといえる。
かと思えば、他の人にとってはいい人でも僕にとっては苦手な人というのもある。人間関係とは不思議なものだなと感じる。業が合わないとは、経験も、学問も、感性も、教育も、環境も違うことを言うのだから合わないほうが当然ともいえるが。
合わないことを面白がる余裕があるといいといわれるが、相手との距離感によってできるときもある。あまりに近い距離にいる人だったら、合わないことがとてもストレスに感じるが、遠い距離にいる人だったら少し余裕ができるから面白がることができる。
僕は人間関係は距離感だと思っているが、できるだけストレスを感じない距離を心がけている。好きな人には近づくが、嫌いな人には好きになれるまで離れることを意識している。
仏教で自分にとって都合がいい人か、悪い人か、でその人を好きになるか嫌いになるかが関係しているといわれるのは、まさに真理だと感じた。
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