解説
百万人の人が求めるもの——それは「幸福」でありましょう。どうしたら幸福を得られるだろうか——その「道」(方法)を指し示す解答こそは万人の聞かんと欲するところであります。幸福! 幸福!! それを追求して追求して、なお得られぬ時、人々は「運命」の語を想い出す。人間には運命というようなものがあると、漠然と誰しも感じているのですが、それが強く意識に上るかどうかは、その人の人生体験の浅深によることです——

本書の著者 西澤嘉朗 略歴?
この本も「陰隲録」について詳しく解説された本である。僕自身が読んで心に残ったところを3つ紹介したいと思う。
その1
もし運命が生まれながら一定していて一生涯絶対変化せぬというものならば、たとえ善をなしたとてどうしてこれに福を降すことが出来ましょうか、また悪をなしたとてどうしてこれに禍を降し得ましょうか。また『詩経』の大雅・文王篇に『天命常なし』ともいってあるが、常なしとは禍福とも人の善悪次第でどうにでもなるもので、決して運命が決定されてしまって動かぬものであるというのではないことを指しているのです。
自分の運命は生まれたときから決まっているという宿命論を否定する言葉だといえる。運命が善くも悪くもなるのは自分の行動次第。善い行いをすれば、善い運命になり、悪い行いをすれば、悪い運命になる。これは仏教の教えのなかに因果応報が教えられているがそれと同じことをいっている。仏教では、善因善果、悪因悪果、自因自果と説かれている。
その2
とかく凡人はここの道理がわからないので、少し位の善事を行ったところで身に得にもなるまいと思って、善事を行うことに努力しません。一方、悪事の方は少し位の悪事をなしても身をそこなうこともあるまいと、しやすい悪事の方はついつい悪事の多くを積むことになり、罪は増大して掩い隠すことが出来ず、解消し難きに至るので、結局身をほろぼすようになるのであります。
小さな善い行いでも小さな悪い行いでも必ずそれは結果となって現れる。だから小さなことでも善い行いをすべきだし、小さな悪い行いは慎むべだ。仏教では、まいたタネは必ず生える、まかぬタネは絶対に生えないという言葉がある。どんな小さな行いでも運命をひきおこす力がある。小さな行いだからと軽くみてはいけないと持戒できる言葉だ。
その3
陰徳ということ——善をなすのに、その行うことが、他に知られぬようにすることであります。「陰徳は耳の鳴るが如し」といって、耳の鳴るのは自分にだけは大変騒がしく聞えるが、他人にはちょっともわからぬようなものです。善を行っているところを他人に見てもらいたがったり、あるいは行った善を他人に吹聴したがったりして、とかく人に知ってもらいたい、認めてもらいたいのが、人間通常の心理です。それをぐっと堪えて、他人の気づかぬように、ひそかに行う善事を陰徳というのであります。
人の知られないように善をすることはなかなかできない。どうしても褒めてもらいたいという気持ちがあるから、人に見られているところで善をしがちだが、人に知られなくても善い行いをしていきたい。それが自分を磨くことになるし、人間性も高まり、善い運命がおとずれることになるからだ。

本書では「陰隲録」の研究がされている。「陰隲録」は運命について深く言及しており、仏教の因果応報と類似しているところがあります。本書とあわせて仏教を学ぶとより理解が深まると思います。
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