要約
まともな行動をとるときは群れていてはできない事がある
学校のクラスで起きるいじめ
→ 首謀者が一人いる
→ その首謀者に加担する生徒がいる 首謀者に睨まれたくないから
そのときいじめられている生徒に普通に話しかける人というのはまともな人といえる
群れずに違った方向へ進むのは孤独になる
→ 勇気あるまともな行動が世の中を変えていく
孤独は山の中にあるのではなく街の中にある (三木清)
真の知識にあうことは かたきが中になおかたし (親鸞聖人)
親鸞聖人 35才のとき越後に流刑になられる
→ 一向専念無量寿仏を生涯説かれた
→ 加持祈祷は間違っていると声をあげた
→ 群れから反対の方向へ独りゆかれた
感想
間違った方向へ進む群れの中から、独り反対の方向へ進むのは勇気のいることだ。みんなから変な奴と思われるし、何か嫌な事をされる危険もある。しかしまともな人というのは独りを恐れないという。世の中を変えるには群れていては変えられない。
僕の中学生時代、クラスの中でいじめがあった。いじめられていた子といじめている子は、もともと仲が良かった。僕とも仲が良く三人で遊ぶこともあった。しかし、二人の仲が悪くなりいじめが始まった。いじめる子に加担する子もでてきてが、僕はいじめることはなかったし、いじめられていた子とは普通に会話はしていた。しかしいじめる子はだんだん素行が悪くなり不良と呼ばれるようになっていった。睨まれたら嫌だなと思っていたが、無理して同調することはなかった。僕自身がただ独りの方向へいったわけではないが、いじめることに加担はしなかった。
親鸞聖人は生涯一向専念無量寿仏を説かれてたために、越後に流刑になられた。また加持祈祷の仏教を間違っていると否定された。それがどんなに危険な行為だったかはやる前から分かっていたことだろう。それでもあえてその道を行かれたのは、一向専念無量寿仏こそが本当の仏教であると確信していたからだ。その信念の強さは歴史を変えさせるものだった。すごいの一言につきる。
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