要約
僧侶とは何をする人か?
仏法を伝える人を僧侶という
篤く三宝を敬え 三宝は仏・法・僧 (聖徳太子)
→ お経をありがたく読む人のことを僧侶とはいわない
仏法を伝えるうえで大事なことは、仏法を正しく伝えること
まったく 自見の覚悟をもって 他力の宗旨を 乱ることなかれ (歎異抄 序)
→ 決して自分勝手な判断で他力の真実の教えを乱すことがあってはなりませんよ
勝手な判断で間違ったことを言う者が多かった
歎異抄とは親鸞聖人のいうことと異なることをいうものを歎いてそれを正す本
なぜ、自分勝手な判断で教えを曲げてしまうのか
→ 教えを正しく知らない
→ 名誉欲 人から良く思われたい、人とは違う珍しいことを教えると目立つから
親鸞聖人も名誉欲に悩まされていた
→ 悲しきかなや愚禿鸞 名利の大山に迷惑す (親鸞聖人)
→ 名利 = 名誉欲 利益欲
更に親鸞珍しき法をも弘めず、如来の教法を我も信じ人にも教え聞かしむるばかりなり
→ 親鸞の伝えていることは決して珍しい教えではありません。釈迦如来の教えを私も深く信じました。そしてみなさんにもお伝えしている、それ以外何もありません。
蓮如上人は親鸞聖人の教えを正しく多くの人に伝えた
一器の水を一器に移すがごとく
→ 水を一滴もこぼさずに一つの器の水をもう一つの器にそのまま移しきるように、親鸞聖人の教えをそのまま伝えた方が蓮如上人
感想
僧侶とは仏法を正しく教える人のことをいう。それは当たり前のようなことに思えるが当たり前ではないことがわかった。自分勝手な判断で教えを曲げてしまったり珍しいことを教える人が多かった。だから歎異抄という本が書かれた。正しく伝えるということがいかに難しいかがよくわかる。
仏法を正しく聞くためには、その教えの根拠がどこのお経にあるのかを聞くこと。すべての根拠はお釈迦さまのお経の中にあり、親鸞聖人もお経を根拠に仏法を伝えていかれた。浄土真宗ならば、親鸞聖人のお言葉に根拠がある。根拠がない教えというのはその人が作った思想であり、仏教ではなくなってしまう。
その教えの根拠はどこにあるのか、が正しいか正しくないのかの判断になる。
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