要約
表面 → 建前 → 本音 → 本性
フォーマル → プライベート → 本性 → 私の心
三業
身業 身体の行い
口業 口の行い
意業 心の行い その人の心が本性
心口各異 言念無実 (お釈迦さま)
しからば、善人にもあらず、賢人にもあらず、精進の心もなし。懈怠の心のみにして、内は空しく、いつわり、へつらう心のみ常にして、まことなる心、なき身と知るべし (親鸞聖人)
まけば生え まかねば生えぬ 善し悪しの 人は知らねど 種は正直
自分の行いに目を向ける
→ 仏教の教えは法鏡といわれる
よもすがら 仏の道に入りぬれば わが心にぞ たずね入りぬる (源信僧都)
いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし (親鸞聖人)
感想
本音と建前、それは誰もが持っている。人とうまくやっていくためには本音ばかり言っていてはうまくいかない。建前があるからその人はいい人だと思うことができる。もし本音を聞いてしまったらたちまちその人の人間性を疑ってしまうだろう。
仏教では心を重要にしているが、それは本音よりもさらに奥の部分である私の心を見つめている。親鸞聖人の私の心の部分の告白を聞くと、それは言い過ぎではと思ってしまう。親鸞聖人ほどの人が、善人にもあらず、賢人にもあらず、精進の心もなしと言わている。それじゃ一般の人たちはどうなるのかと思う。
仏教は法鏡と言われるが、法鏡で見た自分というのは悪い行いばかりしているとうつし出される。だから親鸞聖人は、地獄は一定すみかぞかしと言われた。地獄いき間違いない身である自分を救ってくださるのが阿弥陀仏の本願だという。
法鏡で見る自分というのは、見たくない姿だ。そんな自分は救われないと思う。でもだからこそ、阿弥陀仏の本願が必要になってくることがわかる。
仏教を聞くことは、ときに自分の見られたくない丸裸の姿を見られている気持ちになる。
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