要約
■ 仏教の本質は「抜苦与楽」である
★ 苦を抜くことを「慈」という。楽を与うるを「悲」という。 (浄土論註)
・ 苦しみを抜いてやりたいというのが慈悲心であり、幸せを与えてやりたいというのが慈悲心である。
★ 仏心とは大慈悲これなり (観無量寿経)
◇ 仏教とは慈悲の教えです。慈悲の心から仏が教えられた教えを仏教という。

■ 四苦八苦
・ 私たち人間はどんな苦しみを日々受けているか。人間の普遍的な苦しみを仏教では四苦八苦と言われている。
・ 生苦 生きること自体が苦しみである。
愛別離苦 愛する人と別離するという苦しみ
怨憎会苦 恨み憎しむ人と会わなければならない苦しみ
求不得苦 求めても得られないという苦しみ
五陰盛苦 五体盛んなるがゆえの苦しみ
・ 老苦 老いていくという苦しみ
・ 病苦 病気の苦しみ
・ 死苦 死んでいかなければならない苦しみ
◇ 四苦八苦の苦しみは普遍的なもので、あの時代にはこの苦しみはなかったとか、あの国にはこの苦しみはないとかそういうことではない。人間の普遍的な苦しみと教えられている。四苦八苦をもたらす根本原因は一体何なのかということにお釈迦さまは目を向けられた。
■ 煩悩
・ 仏教ではこれら四苦八苦の苦しみの根っこにあるのは「煩悩」だと教えられる。煩悩は全部で108つある。108つある煩悩の中で、特に私たちを苦しませるものを三毒の煩悩という。
・ 貪欲 欲の心 なければないで欲しい あればあったでもっと欲しい
・ 瞋恚 欲が邪魔されたときに怒りがわく心
・ 愚痴 妬み嫉み恨みの心
◇ こういう煩悩が元となって私たちはいろいろな苦しみがやってくるとお釈迦さまは教えられた。
・ 愛別離苦は、愛さなければ別れが苦しくなくなる。愛するから別れが苦しくなる。愛するとは仏教では執着という意味がある。執着しなければ別れがきても苦しまない。しかし、私たちはどうしても愛してしまう。
・ 怨憎会苦は、恨まなければいい。恨んだり憎んだりするから苦しむことになる。憎むという煩悩がなかったなら誰と会っても苦しまなくてもいい。私たちはどうしても自分にとって嫌なことを言われると、カチンときて恨む憎む気持ちになる。
・ 求不得苦もそう。求めなければいい。求めなければ得られないという苦しみを味わわずにすむ。足ることを知れ、と言われるように不足ばかり言っていても幸せになれない。それでも私たちは求めずにおれないから、苦しみから離れられない。
・ 老苦とは若さに執着しているから苦しむ。
・ 病苦とは健康でありたいと思っているから苦しむ。
・ 死苦とは死なないようにいつまでも生きていたいと思うから苦しむ。
◇ 四苦八苦をもたらす根本は煩悩であるとお釈迦さまは教えられた。ところが煩悩を何とかしようとすると知らされるのが、煩悩がどうにもならない自分の姿。
★ 煩悩具足の凡夫
・ 人間は煩悩でできている。雪だるまは雪でできているように、人間は煩悩でできている。煩悩がなくなったら人間はなくなってしまう。
・ 煩悩が苦しみの原因だったら、その煩悩をなくさなければならないが煩悩がなくなったら人間はなくなってしまう。煩悩がなくなったら木や石と一緒になってしまう。
・ 煩悩が人間の苦しみならば人間は苦しみから離れられない存在ということになってしまう。
■ 阿弥陀仏の本願
・ 親鸞聖人というかたは、煩悩の塊である者が救われる仏教がある、ということを私たちに教えていかれたかたです。
★ 罪悪深重 煩悩熾盛の衆生を 助けんがための 願にてまします
・ 罪が深く悪が重い、煩悩が盛んに燃え盛っている、そんな者を助けたいという願いがあるんですよ。
・ この願いを阿弥陀仏の本願といいます。
・ 親鸞聖人は阿弥陀仏の本願のことを大きな船にたとえられた。
★ 難思の弘誓は 難度の海を 度する大船
・ 難思の弘誓というのは阿弥陀仏の本願のこと。その阿弥陀仏の本願は四苦八苦の波が絶えな人生の海を、明るく楽しく渡しきる大きな船である、とあきらかにされたのが親鸞聖人。
・ どうしたらこの船に乗せてもらうことができるのかというと、仏法は聴聞に極まると教えられている。

感想
仏教の教えとは抜苦与楽であり、慈悲の心であるという。私たちは煩悩によって苦しんでいるが人間から煩悩をなくすことはできない。それじゃ人間は苦しむために生まれてきたのか。
煩悩があるままで幸せになることができる、それが阿弥陀仏の本願に救われることだという。阿弥陀仏の本願に救われるとは難度の海で大きな船に乗せていただくこととたとえられる。
大きな船があるのなら、すぐにでも乗せてもらいたい。そのためには仏法を真剣に聴聞することが大事。これからも聴聞を続けていきたい。
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