要約
ある親子がいた 父は鈍太郎 息子は鈍助 馬を売ろうと町まであるいていた
通りすがりの旅人が親子を見て馬へ乗っていけばいいのにとつぶやく
→ 父は息子を馬へ乗せて自分は手綱を引いて歩くことにした
また、通りすがりの旅人がつぶやく。あの息子は年老いた父に馬を引かせてなんと親不孝だという
→ 父は自分が馬に乗り、息子に手綱を引かせる
また、通りすがりの旅人がつぶやく。あの父親は若い息子に手綱を引かせて平気で馬に乗っている。無慈悲なやつじゃのうと。
→ 父は自分と息子も一緒に馬に乗る
通りすがりの旅人が親子を見てつぶやく。ひどい親子だ、あんな小さな馬に二人も乗って。無慈悲なやつらじゃのう。
→ 父と息子は二人で馬を担いで町へ向かう
それを見た旅人はみな親子を笑った。
どんな馬の引き方をしても悪くいう人はいるというエピソード
人それぞれ業が違うのでみんなばらばらな意見をいう
多数決が常に正しいか?
→ 常識とは多数派だが必ず正しいわけじゃない
学問の世界
→ 真実はいつも少数派 (湯川秀樹)
人生の目的
→ 自分は何を目指して生きているか 誰からも嫌われない生き方をして満足なのか?
親鸞聖人 三十一歳で結婚 当時の僧侶で結婚する人はいなかったので
→ 常識破り 非難中傷 破戒僧 堕落坊主 色坊主 といわれた
親鸞聖人はすべての人がありのままで救われるのが本当の仏教であると身をもって明らかにされた
ただ仏恩の深きことを念じて人倫の嘲りを恥じず (親鸞聖人)
悲しきかなや、愚禿鸞名利の大山に迷惑す (親鸞聖人)
如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし 師主知識の恩徳も ほねをくだきても謝すべし (親鸞聖人)
感想
人に嫌われたくない。誰もがそう思うだろう。でも嫌われないようにみんなの意見に従っていたら、自分の本当にやりたいことを見失ってしまう。
仏教ではひとそれぞれ業が違うと教えられる。業が違うから考え方も価値観も違う。分かり合える部分と分かり合えない部分は必ずあるのだなと、心に留めておく。
人に嫌われてもいいと思える人は強い人だなと尊敬してしまう。僕はそこまで自分を貫き通せない。親鸞聖人は非難中傷をされても自分を貫いた。とても真似できない。
人生のなかでここは人に嫌われても譲れない、そんな強い信念がある人が世の中を変えていくのかもしれない。
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